はじめに。両親から受け継いだ命を60.5年間保ってきた。その間、妻Tと30才の時に長男Sを、32才の時に次男Yをもうけて、一方で両親(+妻の両親)はすでに見送った。60.5年の間、日本人として一般的な生き方「学校(18年間)-会社(2社合計37.5年間)」を実践し(海外生活3回合計12.5年間、外資系証券勤務6.5年間がアクセント)、シニアライフ開始後半年間が経過したところである(自然を感じる山間部2週間-人間を感じる東京都心1週間の2拠点生活を実施中)。2023年は切り替え期と位置付けており、色々なことをゼロから/根本から/改めて見直している。そもそも「人間って何だ?」 ということで人間観をまとめた。詰まるところ進化の結果/過程としての脳がキーだと理解。で、「脳で何をしているんだ?」とうことで認知観をまとめた。ポイントは脳の想像力だ。ところで、昨今、脳科学・人類学・AI開発者等が脳にアプローチしているが、500年前から始まった科学革命以前から脳(=心)にアプローチしてきたのは宗教だ。で、「宗教ってなんだ?」ということで宗教観をまとめた。この流れの中で、この人生観を書いている。
脳内世界。仏教でいう唯識(ゆいしき)という概念は、「一切の対象は心の本体である識によって現し出されたものであり、識以外に実在するものはないということ」を意味している。確かに、人間は現実世界も脳で認知していることを踏まえれば、人間にとって「脳内世界」(仏教でいう識)がすべてである。人間以外の動物に見えている世界は現実世界だけだが、人間はその脳の想像力(そこに無いものを知覚する能力)を生かして、現実世界に加えて、各種想像世界(過去、将来、倫理・規則、他者の心、各種概念、自らの価値観等)を持っている(→感情・脳内物質等からのアプローチも踏まえて総合判断→行動)。あまりにもこの「脳内世界」が騒がしすぎて/強く意識され人間はそれが世界と勘違いしやすいが、仮にこの「脳内世界」を無視すれば/無いものとすれば、世の中には物理的な自分自身を含む自然が淡々とあるだけだ(現在、自然豊かな山間部に年間240日間滞在しているので実感としてもそう感じる)。人間以外の動物に見えている世界はこんな感じだろう(一方で、人間は騒がしい自己の「脳内世界」を世界と思っている=人間の天動説的世界観)。ブッダの教え(=瞑想して自分の心と向き合え!/瞑想という方法論と悟りと言う最終到達イメージ)は、詰まるところ、「ドタバタする脳内世界に収まりをつけろ!」ということかと思ったりする。
自己所有感。人間(ホモサピエンス)は、脳を高度に発展させ+最大150人と密に協力することで1.3万年前に食物連鎖の頂点に立った。後者は高度なコミュニケーション能力(=他者の心が読む力)を意味しており、同時に自他区分を通じて自己意識・自我の確立を意味している。なお、人間以外の動物に厳密な/「深い」自己意識・自我はない(高度霊長類にはあるとする学説はあるし、その他の動物でも広義の/「浅い」自己意識はあるも言われているが、人間のそれは「任意の1点ではなく、円の中心でそれ以外の一切の点と質的に異なった特異点」のイメージの自己意識・自我)。人間は、この自己意識・自我の上に、前述の通り、その脳の想像力を生かして、現実世界に加えて、各種想像世界(過去、将来、倫理・規則、他者の心、各種概念、自らの価値観等)を持って(→感情・脳内物質等からのアプローチも踏まえて総合判断→行動)、自らの天動説的世界観を脳内に築いている。言い換えれば、人間は自然から突き抜けた自己所有感(自由意志)/天動説的世界観@「脳内世界」を持っている。一方、人間の体は、物質的には1年間でほぼ入れ替わるように、明らかに自然の一部だ(自然からすれば、個体が死滅すれば、それを構成していた身体物質は、自然界に1年かけて徐々にではなく一気に放出されるだけの話で、個体の死などNothing Specialな話だ)。「自分のもの」(自己所有感/天動説的世界観)というのは幻想・錯覚ではないか。平たく言えば、人間は、自然の一部である自らの身体の上に、自己意識・自我を確立し、その脳の想像力を生かして、現実世界に加えて、各種想像世界を脳内に持って自らの天動説的世界観を築き、結果として自己所有感を持っている。ブッダの教え(=瞑想して自分の心と向き合え!/瞑想という方法論と悟りと言う最終到達イメージ)は、詰まるところ、「自己所有感・天動説的世界観は幻想・錯覚だ!」ということかと思ったりする。
生きている(自己意識がある)だけで丸儲け。前述の通り、この瞬間の人間の身体は、生々流転している/流動的な自然の一部/スナップショットで、1秒後には一部違う物質で構成されるし、1年間でほとんどが入れ替わる。これらは、個体の意識的なコントロールなしに行われており「身体の所有者は自然であり個体がそれを賃借している」と整理可能だろう。ところが、実際には、人間は、賃借感覚ではなく、自己意識・自我を確立し、その上に天動説的世界観を築き、結果として自己所有感を持っている。大いなる幻想・錯覚だ。また、人間は、進化の過程で、時間の概念を得て、自らがいずれ死滅することを知り(人間の真のユニークネス)「死とは何か?」「人生とは何か?」と思い悩む。それらは、人間以外の動物から見れば不遜な問いかけで、科学的・生物学的視点で言えば答えは共に単なる進化の過程である(=主役は遺伝子!)。人生は、生誕(正確には人見知り期終了時=自他区分可能)とともに自然=朝廷から、個体の征夷大将軍に任じられて、死亡時に淡々と大政奉還するイメージで「在任期間」中しっかりと業務遂行すればよいのだ(That’s it!)。身体の所有者は自然であり個体が「在任期間」中それを賃借している。生きてるだけ/意識があるだけ/「在任期間」が与えられただけで丸儲け!! そう地動説的に思うと、どんな状況に置かれても結構気楽で幸せな気持ちで生きていくことができるではないか!
足元しっかり。人間は、自己所有感・天動説的世界観を待ち、感情や脳内物質からリスク感覚を促されたり(多くのネガティブな情報が目につく)、各種行動提案(←費用対効果高く、メリットを最大化しデメリットを極小化しながら、生存&生殖をより確かにする)を受ける。また、脳が想定している世界と現状の世界では大きなギャップ(←垂直的な文明の発展)があるし、人間の強い道具開発志向(←想像力)の影響もあり環境変化が激しいものの、一旦全てを冷静に受け止めるが流すべきは流して深入りせず、真にこだわるべきと考えてえこと以外は淡々と生きる基本スタンスが重要でないか。そのようなことは面倒と思う人は、特定の宗教を信仰し、真理探究には蓋をして心の平穏を得るのだろう(人生での精神世界対応は二者択一で「人間とは何かを自力でトコトン考察する」or「特定宗教に全権委任する/洗脳を受け入れる」ということだ)。人間の内面から自然発生する発信を一旦全て受け入れながら鳥瞰して適時・適切に捌く力が人間の深み(人間に対する深い洞察力)のような気がする。宗教で心の平穏を得ることを選択すると、残念ながら人間に対する洞察力を深めきれない。淡々と生きるイメージは、マザーテレサの「思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから」の言葉が良い参考になる。人は、人間に対する深い洞察力を磨きながら、想像力→「思考→言葉→行動→習慣→性格→運命」に留意して、足元しっかり淡々と生きればよいのだ。(完)