認知観

はじめに。学術界で、人間の複雑な「認知様式」「心のあり様」の詳細についてまだあまり解明されいない(特に、意識と無意識の情報のやり取り/役割分担)。逆に言うと、素人の大胆な仮説の余地がある。なお、仏教はこの分野を唯識として扱ってきた。今の世の中の中心的な知見を私なりに収集・表現したのが上図である。なお、人間は、このような論理的な/左脳的なプロセスのほかに、直観的な/右脳的なプロセスも同時に持つと言われている。

人間以外の認知。哺乳類未満は、現実世界に、もって生まれた(餌、外敵、温度、水等に反応する)プログラム/無意識だけで反応して生きている。哺乳類になると、イヌ・サル・イルカ・シャチ等が人間の教え込んだ芸を実践するように、生まれたプログラム/無意識に加えて、後天的なプログラムを作成・運用できるようになる。(学術界で意識の定義はまだ定まっていないようであるが、)後天的なプログラムを意識と定義するならば、人間以外の哺乳類は、人間の意識とはかなりレベルが違うようだが、一定の意識を持っていると言える。ただ、人間以外の哺乳類にとっては、あくまでも、見えている世界は現実世界だけと言われている。また、人間以外の動物はもって生まれたプログラムで生存・生殖に関わる「群れ」は作るが、(後天的に得た/人間のように)目的・意志を持って集団を作ることはない。つまり、人間以外の動物は、哺乳類の芸に代表されるように多少後天的なプログラムで動く部分もあるが、人間のような目的・意志がなく、基本的にはもって生まれたプログラムに沿って自然/外界との境界も曖昧(自己意識がない/未成熟)なままで(人間からすると)ぼーっと生きているだけの/外界に直接的に反応しているだけの存在と思われる。

人間の認知。脳の重さは、サルが総じて400gであるのに対して、人間の成人では1200-1500gである。また、人間は1日に消費するエネルギー(基礎代謝)の20%を、体重の2%程度の重さの脳で使う。人間は、この大きな脳で大量のエネルギーを使って何をしているのか。別のエッセー「人間観」でも考察したように、人間を人間たらしめているのは想像力(そこに無いものを知覚する能力)だ。人間はこの力を使うことで、時間の概念(含む、自己の将来の死)、他者の心⇔自己意識・自我(この2つはセットで獲得したと思われる)、より安全で便利な生活、各種抽象概念を獲得した。人類史を概観すれば、この想像力の増大が1.3万年前に臨界点に達して(行動力の源にあるのは想像力の蓄積)、それ以降の垂直的な文明の発展につながったと思われる。一方で、脳の使用エネルギーに関して、95%は無意識(=5%が意識が利用)で使われるという説がある。意識と無意識の情報のやり取り/役割分担にまだまだ不明な点が多い中、数字の一人歩きは禁物と思うが、それでも透けて見えるのは、①生きるための「前さばき」を無意識が行い、意識は高度な判断を要することに特化している(人間には課題フォーカス機能があり意識はそれに特化して対応している)、②意識は無意識よりエネルギーを消費すると推察され、(省エネ的な)直観的な/右脳的なプロセスがあることも考え合わせると脳のメカニズム上「省エネ」が大きなテーマとなっている。話を元に戻して想像力。人間以外の動物に見えている世界は現実世界だけだが、人間はその想像力を生かして、現実世界に加えて、各種想像世界を持っている。過去、将来、倫理・規則、他者の心、各種概念、自らの価値観(←人間性←人格←個性←行動←判断)等を、課題フォーカスされた事項を吟味するために、脳内の「コックピット」に映し出し、総合判断して行動を決めているのだろう。

実は現実世界も想像世界。無意識は現実世界をリアルタイムで見ているが、無意識を経由して意識が認識しているのは(我々がリアルな現実と思っているものは)実は「省エネ」「トリック」発想(←目まぐるしく変化する膨大な視覚情報をリアルタイムで安定的に映し出すにはかなりのエネルギーが必要)の産物である想像世界の様だ。いろんな説があるが、0.X秒前の映像に変化する部分にだけ当たりをつけて補正したという説に私は腹落ちしている。だから、アハ!体験(動画の中でゆっくりゆっくりとある部分が消えていく場合、人間はそれにかなり気づきにくい)やアクション映画でのスタントマン⇔俳優が成立するのである。これ(目の前にあるのは0.X秒前の映像でしかも微妙な変化をフローしていない)を知ってから、私は車の運転時、車間距離をより長くとるようになった。つまり、意識にとっては、現実世界も想像世界ということ(=意識が見ているのは全て想像世界)。意識は、その「コックピット」に並ぶ想像世界群を見ながら思考・判断をしているのだ。

生存&生殖バイアス(リスク感覚)。動物は、食・寝・性、つまり、個体として長く生きて子孫を残すこと(生存&生殖)をより確実に行うという先天的な判断基準を持って行動している。人間は、それを基本としながら、五感で外部環境の情報を取り入れ、無意識を経由した(行動を促す一次提案としての)感情を抱き(+脳内物質の影響)、過去の記憶を呼び起こし、また将来(含む長期的/短期的なメリット/デメリット)を想像し、さらに後天的に得た価値観等を総合的に思考・判断して目的・意志をもって行動し続けている。ただ、人間の認知活動の中で、生存&生殖をより確実にするという線に沿ってバイアスがかかっていることには注意が必要だ。具体的には、脳はリスクに満ちた狩猟採集生活の中で生き抜くことをイメージしているので、無意識から意識に伝達される感情等はリスク管理目的にネガティブ優先になっている(必要以上に悪いことを想定させてリスクの顕在化に備えさせられている)。結果として、ブッダが言ったように我々の生活・人生は苦悩で満ちているように感じやすい。

あらためて人間。上手の右手に「脳内世界」等を記した。「脳内世界」のことを無視すれば、自然の中に人間が存在し何等かの行動をし続けていることがシンプルにイメージされる。一方で、「脳内世界」のことを合わせて考えると、(私だけかもしれないが)脳内で種々のことを色々と考え七転八倒している人間の姿も併せて浮かび上がってくる。ブッダの話の続きになるが、ブッダの教えは、詰まるところ、「ドタバタする脳内世界に収まりをつけろ!」ということかと思ったりする。話を元に戻してまとめ。この様な認知システムを持つ人間が、それ以外の動物と行動面で際立って違うのは、結局のところ、①言葉・概念で他者とコミュニケーション/協調する(おしゃべり)、②目的・意志を持って集団を形成する(集団形成)、③各種道具(含む、宗教)を積極的に創造するということかと思う(道具開発)。(完)