「仏教は、宗教ではない。心理学です。」に記載された考え方は今の自分のものにかなり近い。
①仏教は本来、「信じる宗教」ではなく(自らの心の動きをしっかり観察して)「気づく宗教」で、宗教を狭義に理解するならば宗教ではない(この作者は「心理学」と言っている)。確かに、ブッダは、「心の仕組み」を解き明かし(つまり、悟って)、その経験を多くの人に語り、いつも心穏やかに生きるにはどうるれば良いかを説いた人だ。
②ところが(今の日本の仏教のほぼすべてである)大乗仏教は、人々をせめてブッダの教えの入口に立ってもらえるように、必要悪として信じる対象を導入した。浄土宗・浄土真宗等の(阿弥陀さま≒神様≒超越的存在を想定して)「南無阿弥陀仏という念仏を唱えるだけで救われる」等。本来のブッダの教えは、念仏をベースにしたものではなく、あくまで心を探求し続けた心の科学みたいなものなのに。ブッダの思考の方向は東洋哲学的で「内にあるもの」を対象にしており、西洋哲学の「外にあるもの」を対象にする(→科学が発展した)のと真逆。対象を内に向けているので、この作者は、ブッダの教えは「心理学」に近いと言っている。
③ブッダの言う「第一の矢は受けるが、第二の矢は受けない。」については、この作者と私ではやや違う解釈なので、私の理解を記載する。感情(一の矢)は無意識が意識に発信する生きるために判断・行動を催促すれメッセージで、これを止めることはできない。人は、ここで「二の矢」という、無駄な意味付け(※アランの言う過去に対する後悔と未来に対する不安)をしてしまい、悩みや苦しみの原因を作ってしまう。悩みや苦しみを生まないためには、この「二の矢」を自分に向かって射るのをやめればいいのだ。つまり、目の前の「一の矢」を解決(または無視)することに集中すれば良いのだ。 ※幸福論で有名なアラン(本名:エミール=オーギュスト・シャルティエ)は、以下のように話している。「過去と未来が存在するのは、人がそれについて考えている時だけである。つまり、両方とも印象であり、実態がない。それなのに私たちは、過去に対する後悔と、未来に対する不安を、わざわざ作り出している。」 なお、「二の矢」の増幅機能には注意が必要だ。「喜び」や「不安」のような感情や意識にも、周波数があり「引き寄せ」「共振・共鳴」によって、同じ周波数のものは引き寄せ合う(共振・共鳴)してしまう。ネガティブな感情・意識にはネガティブなものが集まってくるし、ポジティブな感情・意識にはポジティブなものが集まってくる。理論はさておき、これを示す言葉はたくさんある。類は友を呼ぶ、朱に交われば赤くなる、笑う門には福来る。泣きっ面に蜂、弱り目に祟り目、一難去ってまた一難。つまり、「喜び」の周波数でいれば、喜べる出来事が、逆に「不安」の周波数でいれば、不安な出来事が起こる、ということ。二の矢を射ることなく、一の矢が打たれた現実(今ここ)に集中することが重要!!
④まとめ。不安も悩みも、心が勝手に作り出した妄想(二の矢)に過ぎない。人が生きられるのは「今ここ」しかない。過去は過ぎ去り、未来は未だ来ない。「今ここ」に集中! 目の前に心を注げば、問題にも落ち着いて対応できるし、幸せもより色濃く感じられる。心ここにあらずでいると、今が灰色になり、人生全体も灰色になる。これが、ブッダの言っていることの核心で、大乗仏教は必要悪を含みながらもその入口に人々を導く導入ツール(→そこで止まってはいけない)。
【今日の1日/曇・雪】6時半床。家事一般。情報by新聞・TV。サイト運営。SNS受発信。雪の状況チェック。朝食。温泉-昼食・喫茶-買物x2。夕食。就寝。(一言)冠雪した富士山!
【短期目標=方向性】動きながら考える。身体↑+心の制御↑(心の平穏+生きる推進、第一の矢は受けるが第二の矢は受けない、顕在意識⇔潜在意識、Must軸→目的・目標軸=今に集中、人間≒脳≒心に対する洞察)+「道具+技術+知識・思考=世界観=生活・実行=習慣」↑【中期目標】INPUT⇔OUTPUTの好循環→ブログコンテンツ蓄積↑(言語力)。箱根峠宅の庭構築・利用↑(空間力)。家計認識・運営↑(数字力)。【長期目標】人生の結章:ブログ→「卒サラ@還暦してわかった人間≒脳≒心! 人類学と脳科学の知見で世界観を作ってみた」を出版(内省力、科学的知見を梃子に「人間の深み」を哲学する)。ファミリーツリー運営+自然と共生。【メモ】70才まで9年弱、80才まで19年弱、90歳まで29年弱(初孫28才)、100才まで39年弱。