自然の中にいると、世界は自然(含む、自身の身体)と自意識しかないと感じる。自然は私達を取り囲む全てであり、自意識はその自然を眺める視座。社会的な役割や他人の目といった第三者が消えたとき、「自然」と「私」の関係だけが際立って感じられる。たとえば風が頬を撫でるとき、それを感じる「私」がいて、風という「自然」がある。でも、その瞬間、風と一体化したような感覚になることがある。つまり「感じている私」と「感じられている自然」の境目が薄れる。都市やテクノロジーがつくり出した「第三の層」がなくなることで、私達は原初的な「人間対自然」の関係に戻る。まるで、人類がまだ集団や国家をもたず、自然と直接向き合っていた頃の視点に立ち返るのだ。思えば、都市生活は、自然の摂理から一時的に逃れる人間の試みでもあり、欲望を拡張する文明の表現でもある。しかしその代償として、自分の本質的な存在感を感じる機会が奪われる面がある。また、都市生活では、評価、選別、競争が常態化しており、「人からどう見られるか」が強調され、「過剰な自意識」を育てる温床もなる。
仏教の概念である空、無我、無、縁起は「世界は自然と自意識しななく、自意識も自然の一部とすると世界=自然」と言っている!?世界にあるのは自然(縁起の流れ)のみであり、自意識もその一部の現象(無我)であり、すべては固定的な実体を持たない(空)。したがって、世界=自然=空なる縁起の流れ。
空(くう)= 固有の実体がない。。。すべてのものはそれ単独では存在せず、他との関係性の中で成り立つ。つまり「私」も、自然の一部として、さまざまな要素の集合にすぎない。 自意識が「自然から分離した主体」ではなく、「自然に浮かぶ一時的な波のような現象」だと見る視点。
無我(むが)= 固定的な自分はいない。。。「私」という実体はない。五蘊(身体・感覚・思考など)の束であって、それすら常に変化している。 自意識もまた「自然の流れの中に偶然形成された、一時的な構造」とみなせる。
無(む)= 無ではなく、空白や開かれ。。。「無」とは虚無ではなく、あらゆる可能性に開かれた余白のような概念。そこには「私」や「自然」が溶け合う場がある。自意識を「無」の中の一現象とすれば、それは自然における自発的な反射とも言える。
縁起(えんぎ)= あらゆるものは相互依存して存在する。。。木があり、空気があり、太陽があり、水があり、それらがなければ私も存在しない。つまり「自意識」は完全に「自然」に依存して生じている。よって「自意識も自然の一部」と捉えるのは、縁起の視点から完全に理にかなっている。
【今日の1日】曇。5時半起床。家事一般。情報by新聞・TV。サイト運営。SNS受発信。朝食。庭整備。昼食。不動産業者と打ち合わせ・各種シミュレーション。大相撲観戦。夕食。阪神タイガース観戦。就寝。(一言)不動産一部売却へ。
【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか by 今井むつみ・秋田喜美
【OUTPUT】マンダラチャート維持
