現代社会は「他者認知社会」とも言える。会社・社会等他者が作った基準で評価され、自己認知よりも他者認知が優先する。そうした他者認知をベースに作られた自信・価値観は第三者評価が揺らいだり、無くなったりしてしまうと簡単に崩れ去ってしまう。自分にとって何が一番大切なのか分からなくなってしまう。昭和のサラリーマンには耳の痛い話だ。で、卒サラ世界=シニアライフで目指すは、自律性の自己肯定感(自分の内的な基準に基づいた自己肯定感)という事になる。これは、根本のところで自分を認め受け入れているため強力。
話は逸れる。宗教に深く入った信者が発する「強いが浅い」イメージもこれで説明できる。自律性の自己肯定感を内省を極めて得るのではなく、自己が特定宗教の教義と一体化することで得るので、自己肯定感が底堅くなるが、内省不足で人間として浅いイメージが残ってしまうのだ。一方で、同じ宗教関係者でも高僧と言われる人は人間としての深みを発していることが多い。多くの人と接する中で、(当該宗教の教義を尊重しつつも、一方で)人間≒心≒脳を深堀しているのだろう。このブログでも繰り返し言っているが、人は心の平穏を求める方法は、究極的には二者択一で①「ブッダのように人間(≒心≒脳)とは何かを自力でトコトン観察・考察する(哲学的)」or②「特定宗教に全権委任する/非科学的な教義・超越的存在を受け入れる(宗教的)」ということだ。人間としての深みも求めるなら、結局①が重要なのだ。言い換えれば、一般信者は②で止まっていることが多いが、多くの高僧は②から①に展開してるという事。逆に言うと、②が無駄とは言わないまでも、①の単なるステップなのだ。そういえば、ある精神世界を深めている人が「宗教からのメッセージのうち受け入れられるものは『モラル』として受け入れるが、結局は自分で考えなきゃいかん」と言っていた。その通りだ。特定宗教の教義と一体化して自律性の自己肯定感を手っ取り早く得たい気持ちもわからなくはないが(ある脳科学の知見によると、特定宗教に深く入っている時とバクチをしている時では、脳の同じ部分から脳波が出ているらしい=両方とも要は「賭け」なのだ!)、急がば回れ(①or②経由で①=結局①)が正解なのだ。古代・中世と違い、この情報化社会では、考えるネタはendlessにあるのだから。
【今日の1日】4時起床。家事一般。情報by新聞・TV。サイト運営。来週企画案件対応。家計月末ポジション確認。朝食。叔母相続案件対応。庭メンテ。昼食。来週企画案件対応。夕食。就寝。(一言)日次ブログのネタ切れの心配がまったくなくなってきた。2023年も残すところあと1ヵ月。