信教の自由vs精神の自由

Wikiによると、「ジャーナリストの藤田庄市は、殺人を「ポア(救済殺人)」として正当化する教義をもつオウム真理教や、先祖因縁などの宗教的脅迫で財産を奪取する統一教会を例にあげ、「信教の自由」(憲法20条)が「精神の自由」を侵害する人権蹂躙は、従来の宗教観の枠に呪縛されていれば見えないと指摘した」。なるほど。改めて確認。憲法上の「基本的人権の尊重」では、「平等権」「自由権」「社会権」「参政権」「請求権」が保障されており、自由権には、精神の自由、身体の自由、経済活動の自由がある。

憲法20条の背景に、戦前・戦中の日本が事実上の国教ともいえる国家神道を国民に強制し天皇を強引に神格化して(どの大河ドラマでも、昔の天皇を人間味たっぷりに描くが。。。)、戦争遂行への総動員体制を敷いた反省がある。一昨日、政府は、旧統一教会への宗教法人法に基づく解散命令請求の要件について「民法の不法行為も入り得ると整理した」と修正答弁を行った。政府サイドには、「信教の自由」に加えて、文化庁が2015年に認めた旧統一教会の名称変更問題(政治が関与した可能性もささやかれている)もあり(政府サイドは、公安調査庁が2005年と2006年に発行した文書の中で旧統一教会が「特異集団」で「不法事案を引き起こすことも懸念される」としていたが特段の対応をしなかった)、及び腰だったが、宗教二世を含む被害の質・量を背景とした世論の高まりについに押されたか。。。いずれにしても、無宗教の者が多い割には宗教心を大切にする者が多い日本(日本は、宗教を捉えるフレームワークが多くの他国と異なっている!)で、今般「信教の自由」vs「精神の自由」の成熟した議論・認識共有が期待される。

個人的には、各人は「既製服」の宗教ではなく、「オーダーメイド」の個人哲学を真摯に磨くべきと思うが(←それこそ高度に発展した長寿社会における人間の人生そのものと思うが。。。)、人は開祖・教義・救済をストーリー・パッケージとして語る宗教というものに残念ながら手っ取り早く耳を傾けやすい(→傾倒する人は、他者が作った教義をより深く理解してそれを実践することに多くの時間をつかってしまい、自身の個人哲学追求の余力を失い、強いが薄いイメージの人になってしまう)。そういう意味では、日本は、八百万神(やおよろずのかみと読むが、文字が言うのは8 million Gods!)を生んだ気候風土の中で、長い歴史を通して蓄積された生活の知恵なのか、「宗教とつかず離れず」と曖昧な宗教的態度「指数」で世界NO1(下記備考参照)。個人的には、それをポジティブに評価したい。

より説明すると。多くの日本人は、個人哲学を軸に生きることの重要性を意識的or無意識的に気がついているが、その確立・実践は結構面倒なので、開祖・教義・救済の無い神道を軸に、複数の(開祖・教義・救済のある)宗教の部分を「つまみ食い」すること持って代用!? それは世界で言う宗教の定義の外かもしれないが、日本では実際に主流の宗教的態度であり、費用対効果の高い現実的対応として、私は個人哲学の代替としてポジティブに評価している。時々自然災害が発生するものの、総じて人間に親和的な気候の日本では、最適な心の持ち方!? ところが、現代社会では(石器時代の脳を引きずる人間が想定していない)色々なストレスが多々ある中、心に隙ができ/心のコントロールを失ったときに、変な宗教の誘惑に乗ってしまい精神の自由を奪われるケースがあるということか。

【今日の1日】(深夜に中起きしたので)6:30起床。朝食。庭整備。ブログ書き。情報収集by新聞・TV(脳疲労の話が良かった!→明日のブログ)。SNS受発信。自己散髪。換気扇清掃。朝風呂。昼食。森林浴。知人@箱根に収穫野菜デリバリー-買物@セブン。家内清掃。ゴルフレッスン・練習。夕食。  色々活動の1日。

【備考】日本人の宗教観は奇妙か、それとも他国が奇妙なのか政治家はいかに宗教と向き合うべきか 石破茂さんと考える

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