昨今時々「君は哲学者を目指してる?」なんて言われる。「人間を突き詰めるぞ!」という思い・言動がそのようなイメージを発するのかもしれない。まあ、ブッダも仏教の開祖となっているが、実際には哲学者だったと言われる。後世の人がブッダの言動をベースに仏教という宗教を作ったのだ。ブッダの真の姿を日本人が知ったのは仏教伝来後1300年を経た明治時代になってからとのこと。
人生での精神世界対応は二者択一で「ブッダのように人間≒脳とは何かを自力でトコトン考察する=哲学」or「特定宗教に全権委任する/非科学的な教義を受け入れる=思考停止して特定のストーリーを信じる=宗教」ということだ。簡単に言うと、自力本願なら哲学志向で他力本願なら宗教志向ということ。大昔に知識が限定的だったころには、確かに自力でトコトン考察すると言っても考えるネタ=知識は限定的だっただろうから、宗教が流行った理由もわからなくはない。ところが、今や、歴史(宇宙・地球・動物・人類等)の知識や脳科学を含めた科学知識が溢れ、キーワードさえ手に入れれば、そこそこの知識はネット経由で瞬時に集まる。考えるネタ=知識がありすぎるといっても過言ではない。私からすると、知識が溢れている時代に哲学でなく宗教に「逃げる」のは一種のサボタージュだ。
サボタージュの結果が、(日本では)旧統一教会等の宗教被害、(世界では)中東等での宗教対立。。。宗教入信による思考停止(←宗教のデメリット、閉鎖性)って恐ろしい。考えるネタ=知識がありすぎる時代にもかかわらず、特定宗教に入信した人は「型=教義から入り、型=教義を破る」スタンスで人生に臨んでほしい。所詮、(意識的に神聖を装う)教義は(そう考えるべき/そう考えれば心が平穏になる+生きる推進力が得られるという)仮説・手法提案なのだから。(信者本人はそう思っていないがだろうが)洗脳(閉鎖性)から脱して、人間≒脳とは何かを自力でトコトン考察する/哲学路線(他力本願→自力本願)に戻るべきだと思う。宗教にとって教義は、正しいかどうかがポイントではなく、信じるかどうかがポイントなのだ。
【今日の1日/晴】5時半起床。家事一般。情報byTV・新聞。サイト運営。SNS受発信。コンポスト対応。灯油補給。朝食。ごみ捨て-農園-昼食-ジム-ガソリンスタンド(灯油)。夕食。阪神タイガース観戦。就寝。(一言)10月が終わった。11月、心機一転。
1件のコメント