ネット情報をつなぎ合わせて宗教と信仰の問題を整理してみた。以前から問題意識はあったが難しいテーマだ。まずは、基本。「神」を自発的に信じるのが信仰(自分にとって究極的な価値や意味をもっている対象と全人格的な関係をもち、その対象に無条件に依存し献身する心的態度)、人に「宗教」を信じさせるの行為が洗脳(強制力を用いて、ある人の思想や主義を、根本的に変えさせる事)。
頭が必要以上に(?)良くなった動物である人類は、将来を予想できるようになり生存上の危険削減を実現した反面、苦悩・不安(究極的には、存在することへの恐怖?)を認識することとなった。で、苦悩・不安に立ち向かうために「神」という認知システム(情報の表示・操作・保存を目的とした人工物)を作った。信仰する(=「神」を信じる)とき、人は自我を「神」に委ねて、自分自身の苦悩・不安を軽減・解放させることができる。加えて、その認知システムを集団の中で安定的に機能させるために「宗教」という仕組みも作った。「神」自体は多くを語らず、また、科学は厳しい現実を突き続けるのに対し、「宗教」は死後も含めた将来をストーリーとして夢見させてくれるので、人は「宗教」の方を向き易い。そのことは、心理学的にも脳科学的にも説明が可能だろう。なお、一層の科学の発展によって、人は多くの生存上の苦悩・不安を解消したが、一方でより多くの情報・知識を得て、苦悩・不安を広げ+深めた。
人が八百万神に自我を委ね、心がより安定するなら、苦悩・不安対策として目的達成であり、仕組み・手段である「宗教」は必須ではない(日本的な宗教観の本質?)。「宗教」は「神」への信仰を定着させる目的達成のための仕組み・手段であるが、手段と目的を混同して特定の「宗教」自体を人々に広げることが目的となっているような事態(洗脳)が散見される。人は、自らが創作した「神」(認知システム)と「宗教」(認知システムを定着させる仕組み・手段)を前に右往左往!? この説明なら、長年のモヤモヤが解消する!
ふと思い出した。私は中高大10年間キリスト教(プロテスタント系)の学校で学んだ。ある聖書の時間中で先生が「キリスト教を信じるかどうかは別にして、自分の外に何か絶対的なものを持つ(=「神」の存在を信じる=信仰する)だけでも価値がある」旨のことをおっしゃったのを記憶している。その時は、まったく「???」だったが、「宗教は別にして、人は自我を『神』に委ねて、自分自身の苦悩・不安を軽減させることができる」と言うメッセージだったか!?
【備忘】 存在することへの恐怖心
【備考】 (Wiki)各宗教の信者数は、文化庁『宗教年鑑』令和3年(2021年)版によると、2020年12月31日時点で、神道系が8792万4087人(48.5%)、仏教系が8397万1139人(46.4%)、キリスト教系が191万5294人(1.1%)、諸教(神道系・仏教系・キリスト教系以外であるもの)733万5572人(4.0%)、合計1億8114万6092人となり、これは日本の総人口(約1億2600万人)のおよそ1.5倍にあたる。したがって複数の宗教の「信者」として数え上げられている国民が確実にいることになるが、一方で個々の国民へのアンケート調査などでは、「何らかの信仰・信心を持っている、あるいは信じている」人は2割から3割という結果が出ることが多く、逆に総人口を大幅に下回る数しか宗教の「信者」がいない、または「信者である」と思っていない、ということになる。