宗教には大きく2つの役割がある。個人の精神安定化装置としての役割と、社会の安定化装置としての役割だ。宗教は、精神および社会の安定化装置として強力なツールであるものの、その反面、ヒトを人間たらしめている前頭葉(≒脳)を全権委任(=思考停止)してしまう重大なリスクも内包しているという点はしっかり肝に銘じておく必要がある。信じたい人は、信じて救われればよいが(苦悩が大きいほど、真剣に信仰に取り組む人ほど、宗教の救済効果が絶大であることは事実ながら)、一方で失うものも大きい。
肥大化した前頭葉(≒脳)は、感情・欲望の拡大再生産装置=増幅器(アンプ)であり、喜びや悲しみなどのプラス・マイナスの感情は、揺れ動き、高揚しやすい。しかも、生活のほとんどが好ましいプラス要因で満たされていても、1つでも心配事があると、我々の気分や感情はそのことに捕らわれてしまい、全体としてマイナス基調になりがち。良い気分というのは、おおむね心配事の無い状態ながら、感情・気分は、マイナス優先(ネガティブバイアス)にできているので、ブッダが言たように、我々の生活・人生は、生きることも、老いることも、病むことも、死ぬことも、苦悩で満ちている、ということになる。宗教の本来的な役割は、このような、マイナス優先思考、苦悩、際限のない欲望のなどの悪循環から人間(ヒト)を救済し、教義への信仰という形で個人の精神安定化装置として機能することだろう。ただ、信仰とは、前頭葉(脳)を他者に全権委任することと言い換えることができ、精神の安定を手に入れることと引き換えに、知識に基づいて自らが論理的に思考することを放棄して(思考停止)、前頭葉(≒脳)丸ごと偉大なもの(神等の超越的な存在)へ全権委任する(⇔人間とは何かを自力で考察)ことを意味することには要注意だ。一方、宗教の前頭葉全面委任的な特徴を活用すれば、同じ信仰を持つ人々を精神面で一網打尽に掌握することが容易であるため、為政者に社会の安定化装置として利用されてきた。結果として、政治と宗教は、お互いに利用し利用されながら、その勢力範囲を拡大してきたと言える。第2次大戦中の神風特攻隊を生み出した日本の集団信仰、聖戦(ジハード)の名のもとに自爆テロに走るイスラム過激組織、聖地奪回を旗頭に長きにわたり派兵を繰り返した十字軍の遠征などなど、使い方を誤れば、教祖や為政者が、信仰を盾に、信者を戦争へと駆り立て、信者の命までもコントロール出来てしまう危険性がある。また、宗教の全権委任的(=思考停止)な特徴は、宗教団体の自己増殖にも利用されてきた。旧統一教会がよい例だ。
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