宗教を深堀

人間は脳のレベルアップ(方法)で生存・繁殖(目的)をより確実なものにしてきた。それがうまく行き過ぎて(!)、1.3万年前に食物連鎖の頂点に立ち、さらに加速して、過去約5000年間の間に文明・文化を過去との比較で言えば垂直的に発展させ人口を爆増させた(→動物の中で圧倒的な地位を確立した)。ただ、あまりに(進化の尺度で)短期間での急激な発展で、人間の脳はついていけず、ほとんど文明・文化のテイクオフ前(=最大150人の集団で狩猟採集生活)のままだ。その結果、想定している環境と今の実際の環境があまりに違いすぎて、人間の脳は極めて「不安定」な状態であると考えられる。

この様な環境下、人はそのギャップを埋めて心の平穏を求めるのだろう(所詮、主観的な心の世界が人の認識のすべてだ)。その方法は、究極的には二者択一で「ブッダのように人間≒脳とは何かを自力でトコトン観察・考察する(哲学的)」or「特定宗教に全権委任する/非科学的な教義・超越的存在を受け入れる(宗教的)」ということだ。

一神教の場合、絶対神(超越的存在)の慈悲を得るためには、信者には果たすべき義務・規範が明確にあり、それを実行することで心の平穏を得る。仏教の場合は、展開/歴史が複雑だ。ブッダは人間≒脳について深く考え抜き、初期仏教は瞑想すなわち「心身の観察」を通して真実に気づく「気づきの宗教」だった(「哲学的」)。つまり、超越的存在はなく、悟りを求めること・悟ることが大切という(宗教というより)価値観・教えだった(→心身の観察と気づきで心の平穏を得る境地を自らが切り開く)。ところが、日本に伝わった大乗仏教は、ブッダのオリジナル「哲学的」を180度転換し真逆の「宗教的」になり、仏性・本覚・浄土・如来等の超越的存在を教義に取り込んで一神教的な「信じる宗教」化してしまったので前述の一神教と同じロジックを使っていることになる(→教義を理解・実践することで心の平穏を得る)。一方、神道はユニークで、教祖・教義・救済がなく、狭義の宗教の定義から外れるかもしれない。自然(八百万の神)が超越的存在で、人間はそれを単に感じつつ自己対話するだけだ。つまり、救済(含む境内での祈願)を求めても救済は無く、祈願は自己対話で、自然/八百万の神に聞いてもらうだけだという建付けだ。超越的存在(自然/八百万の神)に対する畏怖の念を抱いて生きる(=自然に宗教心/一方的な信仰心をもって生きる)ことで、 心の平穏を得るのである。

ある宗教の信者の方をしゃべってわかったことがある。私のように自分自身はどちらかというとブッダ(初期仏教、「哲学的」)や神道(狭義の宗教ではないとも考えられる)の考え方に近いとふぁっと考えている人にとっては、世の中では(目的)心の平穏で、(方法論)各教義(神道は教義なしだが)が仮説/方法論として競い合っていると精神世界を俯瞰するが、信者にとっては信じる宗教の教義は仮説/方法論ではなく「真理」なのだ。その「盲目性・閉鎖性」(→特定宗教にはまっている人は、宗教を問わず、独特の雰囲気を持っているし、他者を悪気なく勧誘するし、教団はそれを利用して自己増殖を図っている。安倍晋三元首相銃撃事件をおこした山上徹也被告の母はまだ旧統一教会所属のままのようだ)ゆえに心の平穏を得られるのだろうが、宗教/教義によっては(イスラム教、オウム真理教、旧統一教会、エホバの証人等)暴走リスクがある。なお、「宗教によって活性化する脳領域はギャンブルのものと同じ」とする研究もあるようだ。確かに、冷静に考えれば「特定宗教に全権委任する/非科学的な教義・超越的存在を受け入れる」は、(結婚・就職以上に)相当思い切った判断と言える。私はギャンブル嫌いだから宗教も無理なこともあり、「哲学的」(人間≒脳とは何かを自力でトコトン観察・考察する)を選択している(自然・祖先との一体感は意識的に感じるようにはしている)。

【今日の1日】5時半起床。家事一般。情報by新聞・TV。朝食。サイト運営。家計ポジション確認。庭整備。昼食。焼き芋。昼寝。庭整備。大相撲観戦。夕食。就寝。(一言)奥が深い事項(今回の場合、宗教)をどんどん整理していくぜ!

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