人生での精神世界対応は二者択一で「ブッダのように人間≒脳とは何かを自力でトコトン考察する」or「特定宗教に全権委任する/非科学的な教義を受け入れる」ということだ。私を前者を選択している(だからブッダを尊敬している)が、確かに、人間は自らの最上位の目標に振り回されるので、その思いをはるかに超えた存在(超越的存在)に対する畏怖の念を抱いて生きることで、 心の平穏を得るという選択肢(後者)もあり得るとは思う。例えば倫理で言うと、良心の鏡は曇ることがあるが、超越的存在との契約にしてそれを防ぐイメージだ。
一神教の超越的存在。キリスト教やイスラム教の一神教の神は理想の唯一な存在で、どんな奇跡でも起こせ、すべての人間の祈りを聞き、すべての人間を天空から監視し、人間に善・悪を示す、創造者、全知全能、絶対善である。実に大それたイメージなものが本当に存在しているかどうかはともかく、特に西洋ではそのような神を想像・創造・共有してきた。そのような絶対神の慈悲を得るためには、信者には果たすべき義務・規範が明確にあるとする。
仏教の超越的存在。ブッダの教え(初期仏教)は、瞑想すなわち「心身の観察」を通して真実に気づく「気づきの宗教」だった。つまり、超越的存在はなく、悟りを求めること・悟ることが大切という価値観・教えだった。ところが、インド発中国経由で6世紀以降(ブッダの没後千年後)日本に伝わった大乗仏教は、仏性・本覚・浄土・如来等の超越的存在を教義に取り込んでいた。つまり、一神教的な「信じる宗教」化してしまった後の仏教で、本来の「気づきの宗教」とはベクトルの向きが真逆の宗教だ(似て非なるものだ)。なお、ブッダの教え(初期仏教)が日本に紹介されたのは明治維新以降(ブッダの没後2300年後)だ。私はブッダの教え(超越的存在がないので広義では宗教としても狭義では宗教ではないと整理することが可能)を尊重する一方で、先代から引き継いだ大乗仏教のひとつである浄土宗は(宗教ではなく)葬式・法事仏教と割り切っている。
神道の超越的存在。神道には教祖・教義・救済はない。神道では自然(八百万の神)が超越的存在で、人間はそれを単に感じつつ自己対話するだけだ。つまり、救済(含む境内での祈願)を求めても救済は無く、祈願は自己対話で、自然/八百万の神に聞いてもらうだけだという建付けだ。超越的存在(自然/八百万の神)に対する畏怖の念を抱いて生きる(=自然に宗教心/一方的な信仰心をもって生きる)ことで、 心の平穏を得る。私を含む多くの日本人はこのパターンだ。日本人は、一神教(絶対神と契約するイメージ)的には無宗教が多いが宗教心(神道の場合、自然/八百万の神に対する畏怖の念を一方的に抱いて生きる)はあることが多い。
私は明治神宮や箱根神社に時々参拝して凛とした境内で心を洗っている。つまり、無宗教だが宗教心はあり、自然/八百万の神に対する一方的な信仰心を持っているが、絶対神と契約するような一神教(含む大乗仏教)は信仰していないということ。新中野にいる時は、毎朝、仏壇に手を合わしているが、浄土宗/葬式・法事仏教を宗教でなく文化として捉えて、祖先との一体感を感じる行いと整理している。人間(日本人は特に)は自然と祖先と一体感を感じれば心が平穏になる!?
【今日の1日】5時半起床。家事一般。情報by新聞・TV。朝食。サイト運営。庭整備。家財整理。農園-買物-ジム。隣家の人と談笑。夕食。阪神タイガース観戦。(一言)一般的なことながら奥が深い事項(今回の場合、宗教)をどんどん整理していくぜ!