旧統一教会を宗教と言うかは議論があるところだが、最近、この問題(信者を洗脳し、そこから労力と金銭を巻き上げ、それを政治家につぎ込み広告塔、及び、マスコミへの防波堤に仕上げて、自己増殖を図っていることが、阿部元首相暗殺事件で広く周知されることとなった)を契機に、宗教ネタに凝っている。
別のブログでも述べたが、精神世界の中で神(=自分の外に認知する何か絶対的なもの)認知は一定の有益性があると思う。人は神を信じるとき自我を神に委ねて自分自身の苦悩・不安を軽減・解放させる事が可能だからだ。神は、人が(頭が必要以上に良くなって直面した?)根源的な苦悩・不安に立ち向かうために創作した偉大なアイディアだ。
では、宗教とは何か。宗教は、神の認知を集団の中で安定的に機能させるための単なる仕組み・ストーリーだ。神の認知=山の頂上(目的)とすると、宗教はいわば登山道(手段)だ。複数の登山道がありえる。ただ、日本古来の八百万神認知のように、登山道(教義)を経由せず頂上認知が可能な人にとっては必須でないし、宗教(=登山道)間の排他的な行為は、神(=頂上)から見ると手段の目的化であり可笑しな話しだ。