悟り

心頭滅却すれば火もまた涼し——。心を完全に意識が客体視できている状態が、途切れることなく、揺らぐことなく、常態化していること。これこそが「悟り」である。つまり、感情が動いても、思考が流れても、脳の「残像」が不安を生み出しても、外界が刺激を加えても、意識が主体であり続け、心はただの対象として見え続ける状態である。この「著しい安定性」こそが、悟りの決定的な特徴だ。① 心は揺れる(=波)。。。 思考、感情、不安、怒り、比較、執着——これらは刺激があれば必ず立ち上がる。② 意識は揺れない(=海)。。。意識は「気づいている場」であり、動かない。③ 悟りとは、 「波(心)に気づいている海(意識)」こそが自分の本質であると深く腑に落ち、 その自覚が二度と途切れなくなる状態である。だから、心=完全に客体、意識=完全に主体という構造が固定された状態こそが悟り。すなわち、心が完全に対象となり、意識だけが私として残った状態である。ただし、この境地は、多くの修行者が人生をかけて向き合う深い領域でもある。本質的には、心の私が消えることへの恐れ、意識が主体になることへの深い抵抗、自我・役割・ストーリー・アイデンティティなど「私」を形づくるものを手放すことへの恐怖が生じる。「私」という感覚が大きく変質することは、脳にとって死と似た恐怖信号を引き起こすためである。

私は、死の前には悟りに至りたいと願う一方、今はそのイメージを持ちながら「生」を楽しみたい。すなわち、生を味わう喜びをしっかり持ちつつ、心の波を眺める力(=意識)を安定させ、最期には深い静けさの境地に入りたいが、今は意識を成熟させながら、生を豊かに楽しみたい。実は、死の前に悟りを目指すことと、今この瞬間を楽しむことは、同じ一本の道の上にある。悟りは生の否定ではなく、生をより深く味わうための境地だからである。悟りとは「心に振り回されない生き方」であり、生の喜びとは「今ここを味わう力」である。心が静かになるほど、「今ここ」の味わいは濃くなる。
ゆえに、悟りとは 生を深く味わうための下地でもある。さらに、悟りは、「死の練習」であり、「死の恐怖の終焉」でもある。言い換えれば、次のプロセスを歩むことが、悟りと生の両立を叶える道となる。①生を味わう(五感を最大化する)。②心の反応を知る(心の動きに気づく時間を増やす)。③心を客体視する(毎日に少しだけBeingの静けさを入れる)。意識に軸が移る。死への恐れが薄らぐ。人生の終盤に静かな悟りへ至る。「生の時間」と「意識の熟成」は、同時進行で進むのである。

【今日の1日】晴。5時起床。家事一般。情報by新聞・TV。サイト運営。SNS受発信(含むブログ)。オイルうがい+白湯+朝ヨガ。朝食。料理(里芋フライ)。昼食。昼寝。買物。知人とLine談笑。料理(シチュー)。夕食。就寝。(一言)料理のレパートリーがどんどん広がる。

【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)心配事の9割は起こらない 枡野俊明

【OUTPUT】マンダラチャート維持



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