人は「なぜ」を知りたがる動物だ。また、できごとの因果関係に納得すれば、人はその出来事を「わかった」と思う。人は、何かが起きたとき、わからないことに耐えるより、ストーリー・物語を動員して理解しようとする。ストーリー・物語は人の思考の枠組みのひとつで、人はストーリー・物語から逃れることがでない。荒唐無稽なストーリーでも、スムーズにつながっていると思えれば、何も説明がないより、はるかに納得が得られる。脳は、事実の羅列ではなく、ストーリー・物語を求めるとも言える。人は起こった出来事を因果関係の上で捉え、あらゆる出来事をストーリー・物語にする。人は「説明が正しい・妥当かどうか」よりも、「説明があるかどうか」のほうに重きを置き、ストーリー・物語でそこを強引に説明してしまうこと傾向がある。陰謀論が流行る背景でもある。
因果応報・公正世界に基づく安易なストーリー・物語には要注意だ。因果応報・公正世界は、善い結果には善いことになった原因が、その裏返しで悪い結果には悪い原因があるという世界だ。因果応報・公正世界に基づき、ストーリー・物語を組み立てると、他人や自分を責めることにもなる。その時は、立ち止まって、そのストーリー・物語も所詮、自分が作ったものに過ぎないと発想を切り替えることが大切だ。安易なストーリー・物語で「わかった気」になったり、「他人・自分が悪い」というストーリー・物語以外の道もあると思えることが重要だ。生きづらいと思った時に自分のストーリー・物語を見直すべきだ。楽しく生きる方向にストーリー・物語の力を使うと、気楽になる(宗教と同じようにパワフル!?)。例えば、人生のストーリー・物語を「漠然と人生に期待して絶望する」から「何かのために生きる」に変えるなど。
理不尽な出来事に対して無理な解釈(ストーリー・物語)を持ち出すことで心の安定をはかることは、人が誰しも持ち得ている性質だ。人は、日常とは異なる状況や事態を目にしたときに、それをそのまま受け入れることは難しく、心の中で何らかの決着をつける必要があり、ストーリー・物語化して安心感を得る!? 人は世界を理解しようとするとき、自分を納得させるために、しばしば粗雑で原始的なストーリー(「コロナが流行っているのはxxのため」等)を構築しようとする。また、人生のついても同様かも。人生に必然なんて何もなく、あるのはただ偶然の集まりであるという事実は人を怯えさせる(人生に意味がないとすると、生身のまま広い宇宙に放り出されてしまうようなもので、そこには道も指針もないことに耐えられない)。存在の脆さ、偶然の頼りなさに耐えきれなくなり、人はストーリー・物語を求めるのかも。それは、宗教の背景でもある。大切な誰かと出会ったとき、この出会いは必然であったのだと思おうとしたり、突然の不幸に見舞われたとき、その運命を呪おうとしたり。人は、ただ生まれ、喜んだり苦しんだりしながら、やがて死んでいく。本来、人生に意味などなく、人は生きることで何らかの目的を達成することはない。究極的に言えば、生まれようと生まれまいと大した違いはないし、生きようが死のうが意味はない。それに意味(ストーリー・物語を)付けるのはあくまで自分自身だ。
【今日の1日/晴】7時起床。家事一般。情報by新聞・TV。サイト運営。SNS受発信。朝食。農園-買物-昼食。昼寝。ブログ書き。阪神タイガース観戦。夕食。ゴルフの予定アレンジ。就寝。(一言)
【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)夢をかなえるマンダラチャート ブッダが教える心の仕組み:52の「心所」で読み解く仏教心理学入門
【OUTPUT】マンダラチャート維持。
