生きる推進力

過去のブログで、「宗教を信じること=自らの『主権』を放棄して他者の世界観を受け入れるこによって『心の平穏』『生きる推進力』を得ようとする賭け」とした。では、方法論としての宗教は横に置いておいて、なぜ人は『生きる推進力』を求めるのか(『心の平穏』については、2024年1月22日のブログで掘り下げた)?話は単純だ。 脳は運動=生きるために頑張っていると判断して身体にポジティブなサインを送るように、脳は前向きに・積極的に生きることを推奨してくる。したがって、(狩猟採集生活では食糧確保=生きることと単純であったが、今はそれほど単純ではないものの)人は背中を押されるようになっており、何らかの『生きる推進力』(≒エンジン)を得て前向きに気持ちよく生きようとする。

一方で、現代の経済社会では、世界中が貨幣を媒介とする同じ1つの経済システムに組み込まれた巨大な資本主義・分業体制が敷かれている。個人としては自分自身の「輪郭」は、少なくとも狩猟採集生活との比較において、捉えにくいく、ぼやけている。その状況下、情報社会の中で「他人の人生」のサンプルが次々と流れてくる。「自分に一番しっくりくるものを選ばなくては」となり、結果として「他人の人生を完璧に生きること」に力を注ぐことになる(何か一つを選びそれを完璧に真似することが人生の目的になってしまう)。何が言いたいか。現代社会では、自分自身の内面ではなく外に存在する他人に目が行きやすい。その延長上にあるのが方法論としての宗教という選択肢だ。この選択肢はユニークなのは、自らの世界観を狭めるという大きな代償を伴うものの、『生きる推進力』に加えて『心の平穏』までも提供されることだ。

ということで、繰り返しこのブログで言うように、やはり、人生での精神世界対応は究極的には二者択一で「(哲学/自分志向)ブッダのように人間≒脳とは何かを自力でトコトン考察する/自ら独自の世界観を作り上げる」or「(宗教/他人志向)特定宗教に全権委任する/非科学的な教義/世界観を受け入れる」である中で、宗教は後者で人生の攻守の要を得ようとする(哲学に比べて極めて)「あんちょく」な賭けだ。実際、人が宗教にのめりこんでいる時に動いている脳の部位=バクチ・賭博をしている時に動いている脳の部位と言われる。

【今日の1日/晴】6時起床。家事一般。情報by新聞・TV。サイト運営。SNS受発信。家計コントロール。朝食。墓じまい対応。マンション管理会社対応。株式事務。昼食with知人@荻窪-買物。家財整理。長男S見送り。夕食。就寝。(一言)人と腹を割ってしゃべることは重要。

【短期目標=方向性】身体↑+心の制御↑(心の平穏+生きる推進、顕在意識⇔潜在意識、Must軸→目的・目標軸、人間≒脳≒心に対する洞察)+「道具+技術+知識・思考=世界観=生活・実行=習慣」↑【中期目標】INPUT⇔OUTPUTの好循環→ブログコンテンツ蓄積↑(言語力)。箱根峠宅の庭構築・利用↑(空間力)。家計認識・運営↑(数字力)。【長期目標】人生の結章:ブログ→「卒サラ@還暦してわかった人間≒脳≒心!」を出版(内省力、科学的知見を梃子に「人間の深み」を哲学する)。ファミリーツリー運営+自然と共生。【メモ】70才まで9年弱、80才まで19年弱、90歳まで29年弱(初孫28才)、100才まで39年弱。

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