盲目的

旧統一教会問題等宗教問題。。。宗教が人を盲目的にさせるように見えるのは、いくつかの心理的・社会的な要因が重なっている。宗教が、人間の 「不安」「所属欲求」「単純化欲求」「権威服従」「超越体験」 のすべてに同時に訴えかけるからだ。つまり、宗教は「人間の構造」そのものに深く根ざしているため、理性だけでは容易に制御できない。

① 心理的要因:不安と意味への欲求。。。人間は「なぜ生きるのか」「死んだらどうなるのか」といった根源的不安を抱えている。宗教はそこに「明確な答え」を与えてくれるため、信じることで不安が軽減される。つまり、「信じたい」ではなく「信じることで心が安定する」構造。この心の安定感が大きいほど、疑いを持つこと自体が「不安」を再び呼び起こす行為になり、結果として盲信的な態度が生まる。② 社会的要因:共同体と帰属本能。。。人間は本質的に社会的動物であり、所属欲求を強く持つ。宗教共同体に属することは「自分は一人ではない」「仲間がいる」という安心感をもたらす。その一方で、「信じない=仲間から外れる」ことへの恐れが働く。そのため、疑問を持つことが心理的にも社会的にも抑制されやすくなる。結果として、共同体維持のために同調圧力的な信仰が強化され、「盲目的」な状態が発生しする。③ 認知的要因:単純化と権威への服従。。。宗教は複雑な世界をわかりやすく整理する物語として機能する。「神が望む」「善と悪」「天国と地獄」といった二分法的な枠組みは理解しやすく、人を安心させる。しかし、この単純化はしばしば「考えるより信じる」方向へ導く。さらに、聖職者や経典が「絶対的権威」となると、批判的思考が停止する。④ 歴史的要因:宗教と権力の結合。。。歴史的に、宗教は政治や支配の正当化に使われてきた。「神の意志」という究極の権威を使えば、人々は従いやすくなる。この構造が長い時間をかけて文化や教育の中に埋め込まれ、疑わない美徳として定着する場合がある。⑤ 精神的要因:悟り・一体感と盲信の紙一重。。。宗教体験には、「自我の溶解」「全体との一体感」など、深い精神的恍惚が伴うことがある。これは一方で非常に尊い体験ながら、他方でそれが理性の監督を超えてしまうと、カルト的盲信につながる危険もある。

【今日の1日】晴。5時起床。家事一般。情報by新聞・TV。サイト運営。SNS受発信。オイルうがい。朝ヨガ。朝食。ルンバ清掃。昼食。買物。来客準備。夕食with知人夫婦。就寝。(一言)5時間の情報交換、良かった!

【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)心配事の9割は起こらない 枡野俊明

【OUTPUT】マンダラチャート維持

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