芦ノ湖畔

人間以外の動物は障害を負っても目の前の現実に対応するだけだから落ち込まない。一方、人間は、過去・将来に加えて各種概念まで認知・表現すること可能なこともあり、色々と考えて少なくとも一度は落ち込む。要は、心(≒脳≒前頭葉)が自己の世界を規定しているのだ。で、この心に対するアプローチ(for 精神的安定)に関して3種類の人間が存在する。1)哲学派。。。人間(≒脳≒前頭葉)とは何かを自力でトコトン考察する。2)宗教派。。。特定宗教に全権委任する/非科学的な教義を受け入れる=思考停止して特定のストーリーを信じる。3)無視派。。。心(≒脳≒前頭葉)の問題を正面から考えず、哲学を志向せず、また、宗教にも無関心。

昨日、芦ノ湖畔を散策していたら、4人の人がある宗教の勧誘をしていた。上記2)の宗教派に多い「強いが底の浅そう」な風貌の人達だ。宗教派は、精神の安定を手に入れることと引き換えに、知識に基づいて自らが論理的に思考することを放棄(思考停止)して、前頭葉(≒脳)を丸ごと偉大なもの(神等の超越的な存在)へ全権委任するので、どうしても「強いが底の浅そう」なイメージ・風貌の人間になる。人間の心は奥深い(生存確率を高めるために脳を発展させ、結果として文明を急速に築いたが、文明(←発展が速い)と脳≒心(←そんなにすぐには変われない)の折り合いがなかなか難しい)が、そこを自力で深める努力を途中で放棄して、特定の宗教の教義に頼り、その教義(非科学的なストーリー)で思考停止するのであるから、当然に「強いが底の浅そう」なイメージ・風貌の人間になる。

大昔に知識(文明のレベル)が限定的だったころには、上記1)の哲学派を志向して、自力でトコトン考察しようと思っても考えるネタ=知識は限定的だっただろうから、宗教が流行った理由もわからなくはない。ところが、今や、歴史(宇宙138億年・地球46億年・生物36億年・哺乳類2億年・ヒト科900万年・ヒト属250万年・ヒト種20万年)の知識や脳科学を含めた科学知識が溢れ(考えるネタ=知識がありすぎるといっても過言ではない)、キーワードさえ手に入れれば、一定の知識はネット経由で瞬時に集まる(私が毎日日替わりテーマでブログを書けるのもネットの力があってこそだ)。「はじめに言葉ありき」で、アダムとイブの話が宗教上の「空想」であることは、宗教的盲目な人以外には、明らなことだろう(言語の歴史は口語で数万年、文語で数千年だ!)。

私からすると、知識が溢れている時代に1)哲学でなく、2)宗教に逃げるのは一種のサボタージュであるという認識だ。言い換えれば、人間は、生存確率を高めるために脳を発展させ結果として築いた文明(←発展が速い/例えば、過去30-40年間、インターネットで世界は一変!)と、自らの脳≒心(←進化が継続中ながら、人間の文明の歴史はせいぜい5000年、脳はそんなにすぐには変われない)の折り合いを自らがつけるべきである。そのプロセスが、人間としての「奥行き」を生むと思う(⇔宗教派の「強いが底の浅そう」なイメージ・風貌)。哲学派の私としては、人類史の知見、脳科学等の力も借りて「脳」と「文明」の折り合いを自らの手でしっかりつけようと思う。それを哲学というのであろう。結局、私が欲しいのは人間としての「奥行き」!?

【今日の1日/晴】6時半起床。家事一般。情報byTV・新聞。サイト運営。SNS受発信。朝食。買物-昼食-ジム。ネットショッピング受取。夕食。阪神タイガース観戦。就寝。(一言)阪神、3勝3敗。明日勝負!奇しくも第6戦まで両チームの合計スコアは23-23。

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