卒サラ以降1年数ヵ月間の「心の旅」を振り返る。
卒サラしたら平々凡々な生活と思っていたところ、脳がネガティブなことで頭を満たそうとすることにびっくり(もっと言えば、人間の心の不安定さにびっくり)。で、その理由を求めて人類学をかじることになり、人類の進化の過程で、過去・将来にわたり、リスク感覚的にネガティブなことを記憶・推測することを得意とするDNAが生き残ってきたことを理解した(いわゆる心理学でいうネガティブバイアス)。
で、人間(つまり自分)に対する理解を深めるには脳科学に加えて人類学が必要であることに気づき知見(600万年にもおよぶヒト科動物の歴史)をあさった。①人類の文明の発展が急速すぎて(象徴的に、過去1.2万年間で世界人口500万人→80億人!)、脳は150人程度の集団で狩猟採集生活をしていることをいまだに想定していること、②身体は物理的には単に自然の一部で、その上に自己意識(AIがいつ自意識を獲得して人間から独立するかが最近言われている!)が乗っているだけの存在であること、③人間以外の動物は目の前の現実があるだけで過去・未来・各種概念はない(人間以外の動物は障害を負っても目の前の現実に対応するだけだから落ち込まないが、人間は、過去・将来に加えて各種概念まで認知・表現すること可能なこともあり、色々と考えて少なくとも一度は落ち込む! 自己が死ぬことを知っているのは人間だけ)こと等は大きな発見だった。
私が得た最大の気づきは「全ての苦しみ・喜びは心が生み出したものに過ぎない」ということ。つまり、自己の認識のすべては脳の一人芝居で、「苦しみは人間の脳が作る」「人間の脳は物語の製造機である」なのだ! 一瞬、すごい発見だと思ったが、実はブッダに先を越されていた。。。
よく調べていくと、ブッダは仏教の教祖となっているが、それは後世の人がブッダの言動を使って仏教という宗教を作ったのであって、ブッダ自身は宗教家というより哲学家でその言動の本質は「自身の心身をしっかり観察して気づけ!」だと理解した。何かを信じろではなく気づけ!がブッダのメッセージなのだ。要は単に、人間は自身の心としっかり向き合って気づけ!ということなのだが、2千数百年前に人類学・脳科学等の科学の知見が極めて限定的な中でのこの洞察力がすごいのである。同じことを今の人類学・脳科学の知見をベースにして言えば「人類の文明の発展が急速すぎて、人間の脳は150人程度の集団で狩猟採集生活をしていることをいまだに想定し、現代文明とミスマッチを起こしており、結果としてその心は『不安定』であり、個々の場面で人類学・脳科学の知見も参考にして、客観的に注意深く自己の内面を観察し行動に役立てろ!」という感じか。
で、人間の心について色々と調べてていた折、タイミングよく時の大谷翔平が「野球選手として注目されるのはありがたいこと」(生きる推進力)「結婚、子ども含めて平穏でありたい。心が平穏。私生活はそうありたい」(心の平穏)と語っているのを聞いてピンときた。人が、心の不安定さに対して、求めているものは「生きる推進力」「心の平穏」なのだ!攻め・動と守り・静。
そこまで来ると、「生きる推進力」「心の平穏」を得るツールとして人間がよく使ってきてのが宗教であることにふと気が付いた。宗教を私なりに定義すると「(神道には教祖はないが一般的には)教祖と言われる人の価値観・世界観に『陶酔・熱中』の仕掛け(印象に残っているのは京都西本願寺-浄土真宗本願寺派-の御影堂(本堂)での大人数での経読)を組み込んだもので、信者はそれを自己にとって真理として/疑いなく受け入れることで『(攻)人生の推進力』『(守)心の平穏』を得る思想・観念体系」だ。各自が知見を積み上げて哲学する/思考を深めるのではなく、(誤解を恐れずい言えば、)あんちょくに費用対効果高く「生きる推進力」「心の平穏」を得るツールが宗教なのだ。確かに、人間の深み到達チャレンジに興味のない人にとっては大変便利だツールだが、人間の深みにと到達したいと思っている人にとってはちょっと参考にする程度のものだ(寄り道するには時間がかかりすぎる=一般論として、他人の価値観・世界観を深く理解するには相当な時間がかかり、しかも100%理解は不可能だ。特に大乗仏教はブッダの教えを理解促進するためのステップという位置づけ/建付けなので、たとえ教義を達成してもそれがゴールでもない。気づけ!がブッダのメッセージなに大乗仏教は何かを信じろ!とベクトルが真逆で矛盾を抱えている。なお、昨今、日本の仏教界で宗派を離脱してブッダの教えと直接向き合おうとする寺院・僧侶もでてきている)。個人的には、「急がば回れ」(時間がかかっても哲学)が正解(最終的な人間の深みへの到達度が高くなる)と考えている。
脳科学の知見によると、人が宗教にのめりこんでいる時に動いている脳の部位と、バクチ・賭博をしている時に動いている脳の部位は同じとのこと。人は宗教を通して(人として他の動物にはないであろう)明らかな正解がない種々の悩み・迷いに『陶酔・熱中』の仕掛けの中で単純明快な答えor答えの方向性(「(守)心の平穏」「(攻)人生の推進力」)を(無意識的に費用対効果高く)欲しがるし、宗教運営サイドも単純明快性をうまく演出する。違う言い方で言えば、人生での精神世界対応は二者択一で「(哲学)ブッダのように人間≒脳とは何かを自力でトコトン考察する」or「(宗教)特定宗教に全権委任する/非科学的な教義を受け入れる」である中で、宗教は後者で人生の攻守の要を費用対効果高く得ようとする(哲学に比べて極めて)あんちょくな賭けと言える。ズバリ言うと、宗教にとって教義が真実/科学的環境があるかどうかはあまり重要でなく、信者が信じるかどうかが問題ということ(信じる者は救われる!←そこに賭けの要素がある!逆に言うと、だから非科学的な教義が蔓延る。また、照れ隠しなのか/後ろめたいのか、宗教はその非科学性を神秘性等で包み隠そうとする)。なお、教義は単純明快であればあるほど(/非科学的であればあるほど)求心力が高まるようだ(浄土宗の「ひたすら念仏を唱えさえすれば誰もが極楽浄土へ導かれる」等)。
繰り返しになるが、宗教は、人間の深み到達に興味のない人にとっては大変便利だツールだが、(科学的な知見を大いに参考にしながら)人間の深みに少しでも近づきたいと思ている人にとってはそのエッセンスを道徳的にちょっと参考にする程度のものだ(単純明快な道徳的事項をつまみ食いするだけで充分だ)。結果として(職業宗教人はそれなりの深さのある雰囲気を醸し出すが)宗教に深く入った一般の信者が発する「強いが浅い」雰囲気は、信じる宗教の教義をもって「生きる推進力」「心の平穏」を得たことで満足して/ゴール到達感覚を得て、人間の深みを知ようとする努力を止めてしまうことからくるものと思われる。それ以上の(科学的知見をベースにした)進歩・深みはなくなるので、もったいない話だ。
ということで、私の精神世界は、「ネガティブバイアス→人類学・脳科学→現代文明と脳のミスマッチを理解→基本的ニーズとしての生きる推進力・心の平穏→宗教で得るもの・失うものを理解→(科学的な知見に基づく)哲学志向の再確認」とまで進展した。これから、人類学・脳科学等の科学的知見を大いに参照しながら、哲学の中身を作りこんでいく/「人間の深み」を定義して実践し行く!
横道にそれるが、私の宗教的態度を明確にしておく。まあ良いかなぁと思うのは神道ぐらいだ。神道は他の宗教比ユニークで、(いわゆる宗教3点セットである)教祖・教義・救済がなく、狭義の宗教の定義から外れるかもしれない。自然(八百万の神)が超越的存在で、人間はそれを単に感じつつ自己対話するだけだ。つまり、救済(含む境内での祈願)を求めても救済は無く、祈願は自己対話で、自然/八百万の神に聞いてもらうだけだという建付けだ。超越的存在(自然/八百万の神)に対する畏怖の念を抱いて生きる(=自然に宗教心/一方的な信仰心をもって生きる)ことで、 心の平穏を得て、また、自己が超越的存在(自然/八百万の神)に対して発信した言葉の言霊的な「跳ね返り」で生きる推進力を得るのである。神道は、いわゆる宗教3点セットは欠落しているものの、目的性つまり「生きる推進力」「心の平穏」の点はクリアーしている。時々大きな災害があるが、基本穏やかな自然環境の日本でこそ生まれた宗教(?)だ。言い換えれば、近代化以前の日本では、人間の心の『不安定』さに対する精神的サポートはこれぐらいで充分であったということだろう(なお、近代化以前の日本の仏教は、導入の経緯からしても、時の政府が人心をまとめるためのツール的な色彩が強かった考えられる)。念のために付言するが、私は本当に八百万の神が存在するとは思っておらず、その様な超越的存在(自然/八百万の神)を想定することで「自意識の暴走」を防いでバランスの良い心境(←繰り返しになるが心が最重要!)になれると思う/信じてるということ。
【今日の1日/晴】6時起床。家事一般。情報by新聞・TV。サイト運営。SNS受発信。朝食。ブログ・エッセー書き。昼食。妻Tの年賀状・ふるさと納税等の年末残務処理。夕食。就寝。(一言)人と喋るって脳・エネルギーを使うようで、昨夜は熟睡!
【短期目標=方向性】身体↑+「心の平穏(←肩の力を抜いて自己の自意識と向き合う←驕り高ぶらず←先祖と自然との一体感を忘れない←科学的・生物学的視点で言えば人生に意味などなく単なる進化の過程←宇宙138億年・地球46億年・生物36億年・哺乳類2億年・ヒト科900万年・ヒト属250万年・ヒト種20万年の歴史認識)+生きる推進力(⇔自己のエネルギーを高めて行動を重視し実際に創造性をもって実行)」↑+「道具+技術+知識=生活」↑(←「7万年前の文明テイクオフ前の人類の姿に立ち返える)【中期目標】INPUT⇔OUTPUTの好循環→ブログコンテンツ蓄積↑(言語力)。箱根峠宅の庭構築・利用↑(空間力)。家計認識・運営↑(数字力)。【長期目標】人生の結章:ブログコンテンツ→「卒サラ@還暦してわかった人間≒脳≒心!」を出版(内省力、「人間の深み」を哲学する)。ファミリーツリー運営+自然と共生。【メモ】70才まで9年弱、80才まで19年弱、90歳まで29年弱(初孫28才)、100才まで39年弱。