一昨日のブログで、「宗教を信じること=自らの『主権』を放棄して他者の世界観を受け入れるこによって『心の平穏』『生きる推進力』を得ようとする賭け」とした。同じような主権放棄の例は他にもある。
昭和時代にあった土地(不動産)神話。「土地(不動産)神話を信じて=自らの分析・判断を放棄して多くに人が正しいというストーリー(継続的な値上がり)を信じて大きな不労所得を得ようとする賭け」。平成以降、土地(不動産)の価格は上下するようになり、神話は永遠ではなかった。個人的には、1989-1991年、1994-2003年は海外居住であり、不動産には手を出さず/出せず、手を出したのは2004年以降で助かった(←神話明けに、ロンドンとニューヨークの不動産を踏まえて東京の不動産の将来性に相当程度の自信をもって投資できた)。
昭和のコミュニティー型のサラリーマンもそうだ。「昭和のサラリーマンは、入社した会社・組織を全面的に信じて/頼り、自らの手で経済社会を生き抜くことを放棄して、安定と生きる糧を得ようとする賭け」。令和以降、コミュニティー型は崩壊に向かい代わってジョブ型が広がってきた。私は、53-60才の時に完全ジョブ型の組織に所属してその本質を理解・体感した(→ジョブ型組織所属経験から、戦後の特殊雇用慣行としてのコミュニティー型の特徴、および、それ以外の世界をイメージできてなかったことを深く理解した)。
共通して言えることは何か? 厳しい現実を生きる手段として、何かを信じて想定した「ユートピア」(その中では一定の幸福感と満足感がある)を永遠の真実と想定・誤解し、考えることを放棄してしまうことだ/その外の世界をイメージできなくなることだ。何等かを契機に足元をすくわれることがあるし、結果としてその限られた場では「強い」が、狭い世界観の中で思慮の「浅い」人間となってしまう。人間は考える葦だ(パスカル)!!
一方で、17世紀のキリスト教神学者でもあったパスカルは「たとえ、神が存在していないとしても、神がいると前提して良く生きることに賭けるほうがましだ。なぜならば、神がいないとわかった場合でも、良く生きたこと自体が結局は自分の得になるからだ」とも言う(パスカルの賭け)。人間が、すべてを分ることは無理であるならば、一定の枠の中で考えることもやむなしという事か。。。無限の可能性とは幻想で、実際には人間は両極端の中間にいることでしか生きられない。たとえば、人間の感覚は極端なものは知覚しないし、快楽だと感じるようなものであってもあまりに強すぎたり長すぎたりするならば不快になる。人の話を聞く場合でもそれが短すぎても長すぎても全体が理解しがたくなる。知るという行為においても同じ。確実にその全体を知ってしまうということはありえなず、ある程度しか知ることがなく、また、完全に無知だということもないのが普通。自分の身体というものが何であるか厳密には知らないけれども身体を動かすことができ、精神というものが何であるか不明でも精神の働きらしものを感じる。人間の生は極端の中間にのみにある。であるならば、宗教という(中間的な)枠組み(他者が提示する限定的な世界観)の中で生きるのも(私は選択しないが一般的には)選択肢のひとつということか。
【今日の1日/曇】5時起床。家事一般。情報by新聞・TV。サイト運営。大家業。朝食。ブログ書き。ストレッチ。朝寝。昼食。箱根神社へ遅まきながら初詣。大相撲観戦。夕食。就寝。(一言)ある機会があり、2013年からの家計バランスシート12年間分を振り返ることに。いろいろありました。。。アセットサイドはもちろんのこと負債サイドもドタバタ。。。
【短期目標=方向性】身体↑+心の制御↑(心の平穏+生きる推進、顕在意識⇔潜在意識、Must軸→目的・目標軸、人間≒脳≒心に対する洞察)+「道具+技術+知識・思考=生活・実行=習慣」↑【中期目標】INPUT⇔OUTPUTの好循環→ブログコンテンツ蓄積↑(言語力)。箱根峠宅の庭構築・利用↑(空間力)。家計認識・運営↑(数字力)。【長期目標】人生の結章:ブログ→「卒サラ@還暦してわかった人間≒脳≒心!」を出版(内省力、科学的知見を梃子に「人間の深み」を哲学する)。ファミリーツリー運営+自然と共生。【メモ】70才まで9年弱、80才まで19年弱、90歳まで29年弱(初孫28才)、100才まで39年弱。