「直線は存在しない」。この言葉は、初めて聞いたときどこか挑発的で、同時に深い納得感があった。数学では、直線は無限に細く、無限に伸び、完璧にまっすぐな点の集合だとされる。だが現実には、そんなものは見たことがない。鉛筆で引いた線も、レーザーの光も、宇宙を旅する光線でさえ、厳密に見れば揺らぎ、曲がり、ノイズにまみれている。完璧な直線は、存在しない。それでも私たちは、直線を信じている。計算し、設計し、工学を進めるうえで、「直線」という概念は欠かせない。それはもう、信仰に近い。目には見えないが、あると仮定することで世界が説明できる。直線は、現実には存在しないが、理想の中にだけ存在する。
そのとき、ふと自分自身に問いが及ぶ。「私というものも、同じなのではないか?」私は、確かにここにいて、食べ、歩き、考え、笑っている。だが、「私」とは何だろう? 名前か? 経歴か? 記憶の集合体か? どれも「それらしきもの」ではあるが、「これが私だ」と断言できる一点は、どこにもない。日々変わる感情、年ごとに変わる価値観、そして、人によってまったく異なる「私」というイメージ。それでも、社会や家族のなかで「私らしさ」は確かに存在し、私はその輪郭を守ろうとする。時に窮屈に、時に必死に。だけどその「私」も、実のところ直線と同じだ。理想として、仮構として存在し、現実には揺らいでいる。
仏教では「無我」という考え方がある。「自己」などという固定されたものは存在せず、感覚・感情・思考などが一時的に集まり「私らしき何か」が生じているだけだという。科学もそれを裏付ける。
脳神経科学の知見は、「一貫した私」は脳内の錯覚の産物だと語る。それはもはや、「直線は存在しない」と同じトーンで、「自己も存在しない」と言っているようだ。
しかし、存在しないからといって、無意味というわけではない。むしろ、存在しないからこそ、私たちは「自己」を探し、直線を引こうとするのではないか。歪み、ぶれ、曲がる世界のなかで、「まっすぐな何か」に憧れる。「これが自分だ」と言える何かに、つかまりたい。けれどその憧れが、しばしば人を縛りもする。「らしさ」にとらわれすぎたとき、私たちは実在する自分の揺らぎを否定してしまう。それならば、こう言いたい。私は、直線ではない。曲がり、揺れながらも、確かにここにある「自己らしきもの」だ。そして、完全な直線を引けないことに不安を感じる必要はない。むしろそれは、人間である証拠なのだ。存在しない理想に向かって、存在する現実を歩く。それが、私たちの生なのかもしれない。
【今日の1日】晴。5時半起床。家事一般。情報by新聞・TV。サイト運営。SNS受発信。朝食。ゴミ捨て-ゴルフ練習-昼食-ジム-買物。夕食。就寝。(一言)阪神、あかん。。。
【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか by 今井むつみ・秋田喜美
【OUTPUT】マンダラチャート維持
