仏教観

第一&第二パラグラフは「生命観」再掲。

客観的生命観。地球上の自然を構成する基本要素はエネルギー・水・空気・物質だ。それらはエネルギーを駆動力にして時間的・空間的に流動・変化を繰り返すが、それらの最小単位である元素の総量は地球上で見れば一定(水・空気・物質もエネルギーとすれば、世界は基本的にはエネルギーが形を変えて循環しているだけ!)。生命とは私自身の命を含めて、この4つの要素のダイナミックな循環を構成するひとつの「渦」で、大きな循環の中でひっそりと誕生し、一定の時間、動的に平衡状態を保つが(人間の場合、物質的に1年間でほとんどが入れ替わりながら80-100年間程度、生命を維持するが)、命を全うすると、大きな循環の中に淡々と戻る(ミクロ的視点)。一方で、マクロ的視点でみると、自然は全体として不変だ。人間は、4つの基本要素の大きな循環の中の1つの「渦」であるという点においては、動物、植物、微生物、石ころと何ら変わらない。

主観的生命観。ところが、人間は、このちっぽけな「渦」に大きな脳(サルの脳の重さが総じて400gであるのに対して人間の成人では1200-1500g)を装備し、前述のように、「渦」(自然の生々流転の一コマである自己の身体)の上に、自己意識・自我を持つに至り(←生物的には大進化!)、その脳の想像力を生かして、現実世界に加えて、各種想像世界(過去、将来、倫理・規則、他者の心、各種概念、自らの価値観等)を持って自己を中心とした天動説的でにぎやかな世界観を脳内に築いている。「渦」間のコミュニケーションを含めてそのにぎやかさゆえか、結果として、自然の生々流転の一コマ/ちっぽけな「渦」である自己の身体について自己所有感を確立している(「自己の心身は当然にして自分自身のもの!」と思い込んでいる/信じて疑わない)。また、人間は、進化の過程(脳の巨大化)で、時間の概念を得て、自らがいずれ死滅することを知り(人間の真のユニークネス)「死とは何か?」「人生とは何か?」と色々と思い悩む。それらは、人間以外の動物から見れば不遜な問いかけで、(人間世界での哲学的・宗教的な「心の置き場」としての解釈は別途あるにせよ)科学的・生物学的視点/自然界の客観的真実の視点/高校レベルの常識視点で客観的・冷静に考えれば答えは共に単なる進化の過程であるにもかかわらずだ。。。この様に、悲しいかな人間は、自分自身の身体に対して自己所有感を持っているので自己の死を大きな問題と捉え、また、人生に意味づけを強引に/無理やり求めてしまう。「自己所有感は幻想」。これがブッダの教えの核、つまり悟りではないのか。また、 「脳内世界は空」。それに腹落ちした境地を仏教では「無明の闇」を破った世界と言うのでないか。

仏教観。前述の通り、客観的生命観vs主観的生命観の矛盾を2600年前に洞察力をもって突いたのがブッダであり、「ブッダの教え/気づきは、人類の最も深い洞察のひとつ」であることを多くの人が指摘している。ブッダは、私の理解では、人間の脳のメカニズム・癖を、学術的ではなく、感覚的・経験的に洞察して/見抜いて、それに対応する色々なテクニックを発信した人と言える。今の言葉で言えば、「心のトリセツ」を発見・発信した人で、実は私は宗教家とは思っていない。私も科学が未発達な時代でのブッダの「心のトリセツ」に関わる洞察力には心から敬意を表する。後世の人が宗教の教祖と祭り上げたが、本人にはそのイメージは無かったのではないか。ところが、ブッダを理解した(つもりである)ものの、日本で接する仏教とは大きなギャップがあるような気がする。確かに、各宗派が主張していることは、我が家の宗派である浄土宗(ただ念仏を唱えれば救われる=念仏の力を信じる=一神教的=ブッダの教えから、明らかに遊離している。また、浄土真宗では阿弥陀如来の力を信じることを重視しており、これも自力で悟りを得る初期仏教から遊離している)を含めて、ブッダをベースにすると何を言おうとしているのか正直よくわからないことが多いが、ブッダの言動そのものには納得感があるものが思いのほか多くある。で、調べてみた。なんと、日本人は明治維新までブッダの教えの本質(初期仏教)のことを知らず、大きくフック/スライスした大乗仏教を仏教として認識してきたようだ。その結果、日本人は仏教を一神教的に超越的/絶対的なものを想定した「信じる宗教」だと誤解してしまった! 仏教は元来、瞑想すなわち「心身の観察」を通して真実に気づく「気づきの宗教」であるにもかかわらず! あらためて確認するが、ブッダの教えには神(=超越的/絶対的なもの)はなく、悟りを求めること・悟ることが大切という価値観・教え(→今風に言うと「瞑想で心をスッキリさせしょう」)だ。「信じる宗教」vs「気づきの宗教」では、演繹法vs帰納法のように、ベクトルの向きが真逆だ。ただ「気づきの宗教」と言うが、改めて考えると「これって宗教?」と疑問になる。宗教でないものを宗教としたことが仏教の不幸/迷走の始まりなのかもしれない(瞑想が迷走!!)。宗教でないものを宗教として、インド→中国→日本と伝わるうちにベクトルの向きが逆になったのか。。。平たく言うと、ブッダの教え(初期仏教)と大乗仏教では、同じような言葉を使っても内容は、似て非なるものということ。注意が必要だ。昨今、ネット上で大乗仏教各宗を賛美する声は自己賛美以外ほとんどみられないが、ブッダの洞察力に対する賞賛の声は満ち溢れているように感じられる。一方、ネットを使う先進的な仏教界の人はそのことを良く理解して/危機感を感じておりブッダの言動を多用して仏教概念を説明/再解釈し始めているようだ。

空想的仏教観。日本の仏教にも地殻変動/再整理が訪れるか? まあ、1400年間の歴史・蓄積(7.7万の寺!)、および、葬式・法事仏教として社会に定着していることを踏まえれば、日本の今までの仏教はすべての宗まとめて宗教ではなく「文化」「道徳」「儀式」と割り切り/整理して、ブッダの「心のトリセツ」ベースの新仏教として再出発していくのが現実的か!? そうとすると、瞑想/マインドフルネスの教義的支柱として、それらと融合することもありえるかと思う。その意味では、日本の大乗仏教の中で中長期的に発展の可能性があるのは修行として座禅を組む禅宗系だけだろう。もっと言うと、新仏教は、部分的にしろ科学とも融合し、宗教ではなくなる可能性も感じる。現在でも既に仏教は3大宗教の一角ながらキリスト教やイスラム教に比べてすでにその存在感が相当程度薄い。さらに言うと、それこそブッダの2600年前の当初イメージかもしれない!! (完)