はじめに。宗教に関することは、(信教の自由に遠慮があるのか、宗教サイドが神秘性を醸し出したいのか、隠された意図があるのか、)奥歯に物が挟まったような言動が多いが、ここでは、自らの認識・考えをストレートに書く。なお、私が先代から引き継いだ宗教は仏教の浄土宗(墓・仏壇を引き継ぎ亡き両親の法事を行っている)で、中高大10年間はキリスト教プロテスタントの学校に在籍した。英米に通算10年間以上在住した時、欧米人にとってのキリスト教を体験した。また、過去に3年間のヨガ歴があり、明治神宮と箱根神社には年に何回か参拝している。仏壇がある新中野に居るときは、毎朝、仏壇に手を合わせている。
歴史的考察(神道)。人間は、狩猟採集時代、多くの恵みを与えてくれる自然を崇拝し、自然のいたるところに神を感じて、儀式を行っていた。日本の縄文時代(今から13000年前から2300年前)、世界的には農耕定住生活が普及していった時代だが、日本では自然の豊かな恵みを反映して、定住生活ながら引き続き狩猟採集を主に生活していた(日本の農耕定住生活は縄文時代以降の2300年前から1700年前の弥生時代から)。日本では、狩猟採集生活を通じた自然崇拝から八百万の神を信仰の対象とする神道に時とともに移行していったと考えられる。神道は、残念ながら、明治維新から第二次世界戦争の敗戦まで約80年間、同調圧力の強い日本人を国家目的に沿って精神的にまとめ上げるためのシンボル(国家神道。神社よりもむしろ学校で広められた。子供達は教育勅語・修身科・歴史といった授業を通して、国体思想や天皇崇敬を刷り込まれた)として利用された負の歴史があり、今でも靖国神社問題等を引きずるが(最終パラグラフ「最後に」参照)、「神社数8万vsコンビニ数6万」が示すように全体としては今でも民族宗教として健在だ。神道には教祖・教義・救済がなく静的な心の拠り所としては機能しているもののそれ以上ではない。つまり、一神教の導きイメージや仏教の提案イメージはなく、宗教と言うより理念/態度と言える。だから、神社でお願いごとをする(=救済を求める)のは正しくはない。参拝者が一方的に述べるだけだ。
仏教と一神教。インドで誕生した仏教が、中国、朝鮮半島を経て6世紀に日本へと初めて伝来した。それ以降、鎌倉時代まで、色々な形・ルートで種々の仏教解釈が伝わり、政治と持ちつ持たれつの関係であった時代もあり広がっていった。この流れの中で、日本の仏教は、各宗派が微に入り細に入りの状態で、ブッダの教えから、かなり遊離していると言わざるを得ない。最近、ネットを有効に使う先進的な仏教界の人はそのことを良く理解しておりブッダの言動を多用して仏教概念を説明し始めているのを感じる(ブッダは「真理」を突いたが、それ以降の仏教の歴史は宗教というより「文化」であるという人もある)。確かに、各宗派が主張していることは、我が家の宗派である浄土宗(ただ念仏を唱えれば救われる=一神教的=ブッダの教えから、明らかに遊離している)を含めて、何を言おうとしているのか正直よくわからないことが多いが、ブッダの言動には納得感があるものが思いのほか多くある。ブッダ以降のインドにおける原始仏教は、保護する国の方ばかりをみて民衆の支持を失い、また、祈祷・現生利益等に迎合し仏教の強みを失ったと言われる。後者については、現代の日本(世界最大の仏教国)でも同じことが起きてる。寺ではブッダが説かなかった葬式・法事・先祖供養・祈祷ばかりが行われており昨今西洋や脳科学が注目する「真理」(ブッダの教え/気づきは、人類の最も深い洞察のひとつと思われれる)を語らない。なお、ブッダの教えには神はなく、悟りを求めること・悟ることが大切という価値観・教え(→今風に言うと「瞑想で心をスッキリさせしょう」だ。改めて考えると「これって宗教?」と疑問になる。宗教でないものを宗教としたことが仏教の不幸の始まりなのかもしれない)。よく比較されるのが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教等の一神教である。一神教の神は理想の唯一な存在で、どんな奇跡でも起こせ、すべての人間の祈りを聞き、すべての人間を天空から監視し、人間に善・悪を示す、創造者、全知全能、絶対善である。実に大それたイメージなものが本当に存在しているかどうかはともかく、特に西洋ではそのような神を想像・創造・共有してきた。このような絶対神の慈悲を得るためには、信者には果たすべき義務・規範が明確にあるのである。皮肉なことに、ハードで強引な方が継承性が高い。仏教は、心を対象としているので主観的・難解でその解釈・説明は多彩で多岐にわたり、「人間は神の下に平等」の様なハードで強引なパワーは無く、極めてソフトタッチで結果として継承性が低い。なお、キリスト教の「人間は神の下に平等」は良いが、イスラム教の女性隔離問題やキリスト教における中絶禁止問題に代表される、原理主義的な唯我独尊・排他的なのが一神教の欠点だ。一方、多神教は日本の七福神がインド・中国・日本の神々のチャンポンであることにみられるように実に寛容だ。
日本の精神世界の現状と課題。狩猟採集時代の脳で高度に/複雑に発展した現代社会を生きる現代人の「心の平穏」を求めるニーズに対して、残念ながら、仏教や神道等の伝統的宗教があまり有効に機能していない。仏教は、葬式・法事宗教に甘んじている。また、もともとも心を対象としてることもあり難解な上に、10以上の主要宗派があり、ブッダが元々説いた原始仏教から相当程度遊離して、形式主義に陥り、表層的なこと/独自の解釈で全体として右往左往している。神道には、その特性から前述の通り教祖・教義・救済がなく静的な心の拠り所としては機能しているもののそれ以上ではない。加えて、キリスト教等の一神教(砂漠文化の中で生まれた白黒はっきり区別する二元論的)は日本文化・日本人との親和性はあまり高くない(多元論的な山森の文化の東洋は、二言論的で排他的な一神教を生んだ西洋とは本質的なところで差異があるのではないか)。現代日本で、伝統的宗教が精神世界の担い手としてあまり機能していない中、前述の国家神道の反動で規制に及び腰で、カルト宗教が野放し(今般の旧統一教会問題でようやく反転)なので注意が必要だ。新興宗教と言うと、金銭(布施・献金)や労働(奉仕、旧統一教会においては選挙運動だった)が盛んに求められ、他者勧誘数ノルマがあり、誰にも見えず明確に否定できない霊能/霊感(旧統一教会においてはこれをネタに高額商売)や前世/来世とか言われ巧妙にマインドコント―ロール(視野・選択肢が制限)され、教団組織自己増殖のからくりに気が付いて脱退しようとすると祟りがあると脅すイメージを個人的には持っている。教団組織自己増殖を最優先するようなカルト宗教(←本来は、信者の宗教心を育む/「心の平穏」に資することが最優先ななず)は、今般の統一教会問題を機に、信教の自由の原則に配慮しつつも、しっかり規制の網をかけるべきである。
私とブッダ。私は、日本人の精神性や「心の平穏」は、「日本の仏教」や一神教ではなく、人類史と脳科学を副教本にして、ブッダの教え(原始仏教)を学べば相当程度高まると考えている。実は、私にとってブッダは宗教家と言うより、今で言うと「脳科学者+マインドフルネス/瞑想/ヨガインストラクター+インフルエンサー」のイメージだ。瞑想の基本的は「呼吸に集中」「心の動きを観察」(意識が自律神経/無意識に触れる唯一の窓口は呼吸)。ブッダは「苦しみは心が生み出す」と気づき、瞑想すなわち「心身の観察」によって苦しみから逃れる道を見いだした。ブッダのメッセージは詰まるところ瞑想して自分の心と向き合えということだ(瞑想という方法論と悟りと言う最終到達イメージだ)。無意識が状況を判断して感情という形で意識に伝えるのが「第一の矢」で、それに基づいて「第二の矢」として心/意識がさらに動く・膨張(いろいろな思いが湧く=戯論(けろん))する。その「第二の矢」(=戯論)が苦しみを生むとのこと。執着すればするほど、作用反作用的に、重いものが心に残る。「第一の矢」を認識の上、「第二の矢」の深みにはまる前にさらっと受け流すのがコツだというのがブッダの教えの重要ポイントだ。ブッダは、私の理解では、人間の脳のメカニズム・癖を、学術的ではなく、感覚的・経験的に洞察して/見抜いて、それに対応する色々なテクニックを発信した人と言える。今の言葉で言えば、「心のトリセツ」を発見・発信した人で、実は私は宗教家とは思っていない。「心の平穏」のための方法論(修行はブッダ自身の試行錯誤のプロセスであり、修行は求められるプロセスでもない)と悟りと言う最終到達イメージを示した人だ。後生の弟子達が宗教の教祖として祭り上げただけと考えている。実際、最新の脳科学によると、人が苦しみをこじらせるのは、(狩猟採取時代を引きずる)脳が自己・現在を起点に過去から未来へとイメージを広げ、1日6万回も思考していおり(ブッダの言う「第一の矢」と思われる)、しかもそのほとんどが、自らの意志キックではない自動的な思考・感情であり、かつその8割はネガティブで、しかもその95%は前日と同じ内容と言われ(リスクに備えている)、さらに(ブッダの言う「第二の矢」的に)色々と考えてしまい不安な感情が増すのが大きな原因だと。「第一の矢」は止むを得ないが「第二の矢」をまともに受けるなと言ったブッダは脳科学が未発達な時代によく人間の脳を深く理解していた人だったと感心する。なお、人間は今や食物連鎖の頂点に立ち、農業・牧畜をはじめ各種産業の生産力で安全度の高い文明を築き上げ、結果として「心配事の97%は起こらない」という調査もある。なお、2022年12月16日のブログ「第二の矢」に私が腹落ちしたエピソード(「第二の矢」を避けて精神衛生上大きな効果があった実話)を記している。
死の取り扱い。死との関係では、ブッダの教えの本質は詰まるところ「死を正面から捉えた上で生を充実させよ」「右往左往する心をしっかりコントロールせよ」「死を認識(=『第一の矢』)すれば十分、死後のことを含めてそれ以上のこと(=『第二の矢』)のことは考えるな」だろう。人間の体は、物質的には1年間でほぼ入れ替わるように、明らかに自然の一部だ(自然からすれば、個体が死滅すれば、それを構成していた身体物質は、自然界に1年かけて徐々にではなく一気に放出されるだけの話で、個体の死などNothing Specialな話だ)。自然から独立したように錯覚する自由意志を持つに至った人間の「高度」な脳(=心)が、その身体を所有している感覚に陥り、その将来の死を前に右往左往しているだけなのである(天動説=自分中心に世界/自然がある)。ブッダの教えは、平たく言えば「天動説は間違いで、正しくは地動説=自分は世界/自然の単なる一部。それに早く気づけ」「すべては脳(=心)の認識の問題/一人芝居」「自己の一部である脳(=心)が、間違った所有感覚の元、将来の死の前にして右往左往しているだけ」と言っていると理解している。悟りとは、自己と他者が同じであること、もっと言えば、すべては自然と一体と感得することではないのか。自己の思考を「空」にすると表現できるかもしれない。必ずしも修行によって得るものでもなく、気づきによって得られるものだ。ブッダは、「日本の仏教」がいう輪廻(前世/来世)など、何も言わなかったし、むしろ「第二の矢」として考えるなと言ったのである。人間の脳が「わからないままより、何かある方が落ち着く」という特性を持つことを踏まえて、後世の人が創作した/風習に悪乗りしたと思われる。
人生は二者択一。宗教の大きな役割は言うまでもなく、信者に精神の安定、つまり「心の平穏」を提供することだ。肥大化した脳や資本主義は、感情・欲望を拡大再生産・増幅する。一方で、(脳はリスクに満ちた狩猟採集生活を想定しているために)感情はリスク管理目的にネガティブ優先にできるので、ブッダが言ったように我々の生活・人生は苦悩で満ちているように感じる。宗教の本来的な役割は、この様なネガティブ優先思考・苦悩・際限のない欲望等から人間を救済し、精神の安定化装置として機能することだ。方法論として、宗数は、その役割を教義への信仰という形で実現しようとする。しかし、大変に重要なことだが、一方で、信仰とは、脳(=心)を他者に全権委任する(洗脳を受け入れる)ことを意味しており、精神の安定を手に入れることと引き換えに、自分で論理的に思考することを放棄することと同義だ。つまり、人生での精神世界対応は二者択一で「人間とは何かを自力で考察する」or「特定宗教に全権委任する/洗脳を受け入れる」ということだ。私は、前者を選択し、神道を通じて自然との一体感を時々確認しつつ、「日本の仏教」や一神教ではなくブッダの言動をベースに人類史・脳科学の知見を借りて「人間とは何かを自力で考察する」。念のため、前述の通り、ブッダは2600年前に「心のトリセツ」を発信した人で、私は実は宗教家とは思っていない。また、教祖・教義・救済がない神道は、宗教と言うより理念/態度であり、厳密な/狭義の意味では宗教とは認識していない。なお、神社参拝と仏壇に手を合わせる行為は、対象が自然or先祖と違うが、同じような感覚だ(文化としての俗にいう「神様仏様」だ)。したがって、宗教特有の脳を他者に全権委任/洗脳了解の話とは無縁である。なお、「日本の仏教」には葬式・法事宗教としては慣習維持目的に引き続きお世話になる予定である。
最後に。なんでも自分でしたい性癖のある私としては、脳(=心)を他者に全権委任する(洗脳を受け入れる)ことことなど到底できない。実際に、宗教熱心な人からは「強いが浅いイメージ」が発せられる。自分で思考の深化をやめれば自然とそのイメージになる。旧統一教会の勅使河原氏が2022年の会見で発したイメージはまさにそうだった。また、宗教(=脳を他者に全権委任すること=洗脳を受け入れること)は、人間を飼いならすための有効な手段ともなりえることには要注意だ。歴史を振り返れば(十字軍、神風特攻隊、ジハード等)、為政者が人心掌握のため教育の中に取り入れるなど利用してきたし、今もカルト宗教がそれを巧妙に利用して信者を一網打尽にしている。高度な専門知識を備えた多くの若者達が引き起こした1995年のオウム真理教の事件はまさに宗教の怖さ/パワーを感じる事件として衝撃的であった。発達した脳・社会で揺れ動く心に対して、宗教は求める人には「脳を全権委任」「洗脳了解」してもらう見返りに救いを差し出すが、それを目的・意図をもって巧妙に利用しようとする人もいることには十分留意が必要だ。繰り返しになるが、私は神社経由で自然に対して、また、仏壇や墓経由で先祖に対して宗教心・感謝・一体感を示しつつ、ブッダの「心のトリセツ」を視野に入れて、悟りとは「すべては自然と一体と感得すること」「自己の思考を『空』にすること」という認識のもと、人類史・脳科学の知見も借りて「人間とは何かを自力で考察する」ことを選択する。
あとがき。難解な宗教を多角的に論じて、宗教と私自身の関係を明確にできたと思う。「(どの文化にも普遍的に存在する)宗教というものがわかる=人間を知る」だと思う。(完)