私は人類学をかじる中で、宗教が果たしてきた二つの役割を知った。一つは、文明の進展によって生じた「人間の脳とのギャップ」を埋める役割。もう一つは、大人数の人間を束ね、集団として機能させる役割である。後者については、制度や市場、組織といった仕組みによって、かなりの部分が代替されてきた。しかし前者――文明と脳のギャップを埋めるという役割については、今もなお宗教が担い続けている領域がある。この事実を知ったとき、私の中で一つの仮説が立ち上がった。文明と人間の脳とのあいだには、やはり無視できないギャップが存在しているのではないか、という感覚である。
では、なぜ私は宗教ではなく、方法論として別の道を選んだのか。宗教が問題なのではない。むしろ人類史的に見れば、宗教は文明と脳のギャップを埋めるための、きわめて高度な装置だった。ただ、私が宗教を選ばなかった理由は明確だ。宗教は、顕在意識を通じて自己を安定させる仕組みだからである。宗教が提供してきた「安心」の正体を、もう少し噛み砕いてみる。宗教が果たしてきた前者の役割――すなわち「文明と脳のギャップを埋める」機能は、主に次の形で提供されてきた。世界はこう理解すればよい。不安には意味がある。苦しみは試練である。守るべき規範がある。従えば救われる。これらはすべて、顕在意識に「納得の物語」を与えることで、不安を収める装置である。顕在意識が「これはこういう意味だ」「これで大丈夫だ」と理解できたとき、人は一時的に安心する。宗教は、この回路を極限まで洗練させた仕組みでもある。しかし同時に、顕在意識は「縛る側」にもなりうる。ここに、決定的な分岐がある。顕在意識は本来、俯瞰し、調整し、支えるための機能だったはずだ。ところが宗教においては、顕在意識が正解を定め、逸脱を裁き、自己を監視する――管理者の役割を引き受けてしまう。すると何が起きるか。違和感は「信仰が足りない」と解釈され、疲れは「修行が足りない」と意味づけられ、疑問は「迷い」として回収される。結果として、顕在意識は自己を縛る方向に働き始める。このループ構造は宗教に限った話ではなく、文明一般に見られる構造でもある。だが宗教は、この構造を最も完成度高く内包している。私は、自分の中にある顕在意識の「一人芝居癖」に気づき、そこに見切りをつけた。私が求めていたのは、顕在意識が安心することではなかった。身体と潜在意識が、先に安心することだった。宗教が与える安心は、言語による理解、意味づけ、物語化を通じたものだ。一方で私は、生活配置、身体リズム、可動域の回復を通じて、顕在意識や思考が自然と引っ込む環境をつくることを最優先にした。整理すれば、こうなる。宗教は、顕在意識を通じて不安を収める道である。私が選んだのは、顕在意識を後退させ、不安が起こりにくい状態に身を置く道だった。宗教は、正しく機能すれば救いになる。だが一度入ると、抜けにくい。なぜなら、抜けたいという違和感そのものが、内部論理によって回収されてしまうからだ。私はそれを、理屈ではなく、構造として見抜いた。だから宗教を否定する必要もなく、同時に、そこに入る必要もなかった。宗教は、文明と脳のギャップを埋めるための、きわめて洗練された装置だった。だがそれは、顕在意識を通じて自己を安定させる仕組みでもある。私が求めていたのは、理解による安心ではない。そもそも不安が起こりにくい場所に、生活そのものを置くことだった。
【今日の1日】晴。5時起床。家事一般。情報by新聞・TV。サイト運営。SNS受発信。オイルうがい+白湯+朝ヨガ。朝食。ChatGPT。昼食。来客準備。自宅会食with知人夫婦。夕食。就寝。(一言)
【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語-自己・人間・世界を再解釈してみた」ドラフト
【OUTPUT】マンダラチャート維持
