――人生を、回しきったあとに――
人生には、明確な区切りがあるわけではない。それでも、人はある瞬間にふと気づく。「もう、回し方を変えてよいのだ」と。
私は長い間、人生を“うまく回す”ことに力を注いできた。仕事、家族、住まい、健康、経済。どれも疎かにはできず、それぞれが互いに影響し合うなかで、倒れないよう、壊れないよう、全体を見渡しながら調整し続けてきた。振り返れば、それは「起」「承」「転」という三つの章をかけた、制御盤づくりの時間だったのだと思う。
卒サラを経て、生活の軸を内側に引き戻し、身体・時間・空間・思考・人間関係を一つずつ整えていく中で、私はようやく実感した。人生は、力で押し切るものではなく、回りやすい形に整えるものなのだと。
そして2026年。気がつけば、人生の物語は「結章」に差しかかっていた。
結章とは、何かを成し遂げる章ではない。新しい目標を掲げ、もう一段高みを目指す章でもない。むしろその逆で、これまで必死に握っていたハンドルを、少しずつ緩めていく時間だ。
判断は鈍くなり、反応は遅くなり、意欲は「ねばならない」では動かなくなる。若い頃のように、考え続け、語り続け、意味づけし続けることにも、どこか疲れを感じ始める。それは衰えではない。長く走り続けた結果、身体と心が「もう十分だ」と知らせてくれているサインなのだ。
結章に入ると、人生の主導権は、顕在意識から潜在意識へ、さらに身体そのものへと、静かに移っていく。言葉で世界を切り分けるより、感じ取ることのほうが正確になる。説明するより、黙っているほうが誠実になる。整えるより、崩さないことのほうが大切になる。
この章で私が書こうとしているのは、「どう生きるべきか」ではない。「どう回さなくてよいか」、「どこで力を抜いてよいか」、「何を手放しても、人生は壊れないのか」その実感の記録である。
起承転で整えた人生の制御盤は、結章に入って初めて試される。触らなくても回るのか。多少狂っても戻るのか。誰かに委ねても、自然に続いていくのか。
もしこの本が、かつての私と同じように、人生を必死に回している人の手に届くなら、伝えたいことは一つだけだ。人生は、回しきったあとにこそ、本当の姿を見せ始める。
結章は、終わりではない。それは、人生がようやく「無理をしなくても続く形」に落ち着いていく、静かな始まりなのである。
【今日の1日】晴。5時起床。家事一般。情報by新聞・TV。サイト運営。SNS受発信。オイルうがい+白湯+朝ヨガ。朝食。執筆。昼食。執筆。大相撲観戦。4人宴席@神田。就寝。(一言)
【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)心配事の9割は起こらない 枡野俊明
【OUTPUT】マンダラチャート維持
