悟りとは、自意識を無い状態といえるまで極小化した境地ではないか? ①仏教的な視点:自我の消滅(無我)。。。仏教では「無我(anatta)」が重要な教えの一つ。これは「自分という確固たる実体は存在しない」という洞察であり、「悟り(涅槃)」とは、欲・怒・無知(煩悩)に翻弄される「自分」への執着が完全に消えた状態とされる。自意識(=自分という感覚)が極度に希薄になる、あるいは消滅することが悟りの本質だと考えられる。②禅の観点:「我を忘れる」。。。禅では、自己を捨てて今この瞬間に没入することが重視される。道元の言葉に「身心脱落(しんじんだつらく)」という言葉がある。これは「身体と心(=自我意識)を脱ぎ捨てる」ことを意味し、悟りの境地とされる。③現代的な理解:意識の脱中心化。。。現代の心理学や神経科学の言葉で表現すれば、
「自意識中心の情報処理を停止し、全体との一体感を得た状態」=悟り、という見方もできる。たとえばマインドフルネス瞑想などで得られる「自己という境界が溶けたような体験」や、「観察者としての意識が消える瞬間」は、まさに「自意識の極小化」と言える。普段の私たちは「自分」という鏡に世界を映して見ている状態。悟りは、その鏡を取り払って「ただ見ているだけの意識」になること。そこには評価も判断もなく、ただ「ある」だけ。
「自意識を極小化」とは言っても、完全に無くなるわけではなく、それに囚われない自由な状態とも言える。自意識が主役 → 脇役になる。自意識に操られる → 自意識を眺める立場になる。「心頭滅却すれば火もまた涼し」※は、まさしく「自意識の極小化=執着の消滅」によって、外的状況に左右されなくなる境地を詠んだものだ!
※ 戦国時代の僧・快川紹喜(かいせんじょうき)が織田信長の軍勢に寺を焼かれる中で、最後に残したとされる句。禅的な究極の境地を表現している。仏教的に言えば、火そのもの(苦しみの対象)は現実に存在する。しかしそれを「苦」と感じるのは、自我意識の反応による。だから、その自我(心頭)を滅すれば、苦しみも感じなくなる。これは、苦しみをなくすのではなく、苦しみを「苦」とする心の働きを静めることで超越するという、仏教的な逆説的真理。
【今日の1日】曇。5時半起床。家事一般。情報by新聞・TV。サイト運営。SNS受発信。朝食。庭整備。昼食。ゴミ捨て-郵便局-喫茶。外構業者と打ち合わせ。夕食。(一言)
【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか by 今井むつみ・秋田喜美
【OUTPUT】マンダラチャート維持
