悟り

仏教で言う「悟り」とは、「世界や人生をどう考えるかが変わることではなく、誰が・どこから・何で生きているかの主語が入れ替わること」。もっと身体寄りに言えば──思考が人生を運転する状態が終わり、身体と世界の流れの中に、思考が静かに同乗する状態。

釈迦(ゴータマ・ブッダ)を出発点とした仏教はそもそも「思想」ではなかった。ブッダは形而上学的な理論を説いた人ではない。「人はなぜ苦しむのか」を身体感覚レベルで観察し続けた人。つまり仏教の悟りは、世界の真理を理解することではなく、苦が自然に立ち上がらなくなる身体状態に至ること。

悟りは言葉で説明しにくい。悟りの状態では、思考(言語・顕在意識)が前面に出ていない、判断・評価・意味づけが自動で起きない、身体と環境が一体で動いている。説明しようとした瞬間に、悟りは崩れる。仏教が矛盾した言葉・比喩・否定表現を多用する理由はここにある。

無我(むが)・・・「自分が人生を動かしている」という錯覚が消える。主役だった自意識が脇役に退く。自分が消えるわけではなく、運転席を降りた感覚に近い。空(くう)・・・世界に固定した意味・価値・役割が最初から無かったと知る。だから執着が起きない。ニヒリズムではない。世界が軽く、自由に回り始める。涅槃(ねはん)・・・感情や出来事が起きなくなる状態ではない。反射的な防衛・抵抗が起きなくなる。危機モードが常時解除された状態。

禅・大乗仏教はなぜ分かりにくいのか。大乗仏教は、本来、身体的・体験的なものを、社会に広めるため、言語化せざるを得なかった。結果として、修行法、教義、哲学が肥大化し、「考えて分かるもの」に見えてしまった。仏教の悟りとは、思考による人生運営をやめ、身体と環境の相互作用に、思考が参謀として同席する状態である。「もう、頑張って生きなくていい」と身体が知ってしまった状態。宗教抜きにその境地へ達することはまったく可能だ。

【今日の1日】晴。5時起床。家事一般。情報by新聞・TV。サイト運営。SNS受発信。オイルうがい+白湯+朝ヨガ。朝食。ゴミ捨て-ガソリンスタンド-(ヨガ)-買物-昼食-喫茶-ジム。大相撲観戦。夕食。就寝。(一言)

【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語-自己・人間・世界を再解釈してみた」ドラフト

【OUTPUT】マンダラチャート維持

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