INPUTが溜まると人は重くなり、OUTPUTが回り出すと人は軽くなる。ただし、出力は「成果」ではなく「外に出ること」そのもの。INPUTは本来、行動や生活を調整するための材料。ところが、INPUTだけが続くと、情報が「判断待ち」のまま脳内に滞留する=顕在意識が常時フル稼働(=警戒モード)=「まだ足りない」「もっと知るべき」という不安が増殖。つまり、INPUT過多=顕在意識の過労、過労=不安の増幅。「知的」な問題ではなく、身体安全性の問題。OUTPUTというと、ついこう考えがち。役に立つ文章を書かなきゃ。人に評価される形で出さなきゃ。ちゃんとした結論を出さなきゃ。でも本質はそこじゃない。OUTPUTの正体は、情報を「外に置く」ことで、脳と身体を軽くする行為。書く(未整理でもOK)す(結論なくてもOK)。話す(結論なくてもOK)。生活で試す(失敗込みでOK)。これだけで、脳内の「未処理タスク」が一気に減る。INPUT → OUTPUT → 再INPUTが、人間にとって自然な循環。狩猟採集的な環境では、こんな流れだった。体験する(INPUT)-すぐ使う/話す/動く(OUTPUT)-その結果を身体で感じる(再INPUT)つまり、INPUTとOUTPUTは分離された工程ではなく、一つの循環。現代は「INPUTだけを延々と続けられる環境」。
情報収集 →思考 →文章化 →生活に降ろす →また問いが生まれる、これは理想的なINPUT/OUTPUT循環。しかも、OUTPUTが「主張」ではなく、生活描写・言語化・構造化だから、軽さが保たれている。OUTPUTを「成果」「責任」「役割」に変換したとき、OUTPUTはINPUTと同じく顕在意識の管理対象に戻る。INPUTは材料、OUTPUTは排出、バランスの正体は「循環」。OUTPUTは、世界のためではなく、自分の脳と身体のためにある。
OUTPUTなきINPUTは、必ず「閉じた意味体系」を欲しがる。それが宗教化・思想化の正体。① なぜOUTPUTがないと危険なのか。INPUTは本来、行動に使われ、生活で試され、身体で検証される、ことで初めて「落ち着く」。ところがOUTPUTがないと、情報はずっと未処理状態のまま残る。この状態で脳が感じるのは、「まだ終わっていない」「まだ危険が解消されていない」= 慢性的な不安。② 不安が続くと、人は何を求めるか。人は不安が続くと、こういうものを欲する。確定した意味、迷わなくていい答え、疑わなくていい物語。つまり、解釈を終了させる装置=教義・思想・理論・正しさ。③ 宗教化・思想化のメカニズム(構造)。INPUTが増える、OUTPUTがない、情報が身体で検証されない、不安が蓄積する、不安を止めるために「意味」「正解」「物語」が必要になる、反証不能な体系が生まれる。本人は安心するためにやっている。④ なぜ「疑問」や「違和感」が敵になるのか。OUTPUTがある人は、試せばいい、書けばいい、生活で調整すればいい。でもOUTPUTがない体系では、試せない、外に出せない、生活で検証できない。だから、疑問=体系崩壊の危機。結果、疑問は「未熟さ」、違和感は「信仰不足」、離脱願望は「堕落」と再解釈される。「自己保存構造」。⑤ 思想が悪いのではない。思想そのもの、宗教そのもの、理論そのものが悪いわけではない。問題は、OUTPUTの有無。OUTPUTがある思想 → 仮説。OUTPUTがない思想 → 教義、同じ言葉でも、性質が180度変わる。⑥ 身体主義の立場から見ると。身体が主語にあると、合わなければやめる、重くなったら引く、生活が基準になる。だから、絶対化できない、普遍化しない、他人に押し付けられない= 宗教化しようがない。⑦ 今、そこから自由でいられる理由。INPUTしたら書く、書いたら生活で試す、重くなったら距離を取るこの循環。だから、意味にしがみつかない、正しさを保持しない、自分の考えを神棚に置かない、思想を持ちながら、思想にならない位置にいる。OUTPUTなきINPUTは、不安を止めるために「真理」を作る。OUTPUTあるINPUTは、生活の中で自然に溶けていく。宗教からの脱出 ≒顕在意識からの脱出 ≒OUTPUTの回復。
【今日の1日】晴。5時起床。家事一般。情報by新聞・TV。サイト運営。SNS受発信。オイルうがい+白湯+朝ヨガ。朝食。ブログ作成。昼食。ゴミ捨て-天山湯治郷。夕食。就寝。(一言)
【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語-自己・人間・世界を再解釈してみた」ドラフト
【OUTPUT】マンダラチャート維持
