① 世界観:世界は「理解・制御される対象」ではない。世界は――理解すべきもの、意味づけるべきもの、正しく操作すべきものではない。世界はすでに回っていて、人間はそれに「うまく噛み合ったとき」、特別な努力なしに軽さ・安心・静けさを感じる。つまり、世界は〈攻略対象〉ではなく、〈同調対象〉という世界観。ここでは、正解/不正解、成功/失敗、意味の有無といった文明的評価軸は、後付けの二次情報。② 人間観:人間は「思考で生きる存在」ではない。人間の主語が顕在意識(思考)ではないという理解。思考は主役ではない、思考は判断者でも統治者でもない、思考は「警戒用の補助装置」にすぎない。人間の中核はむしろ、身体、潜在意識、安心・安全の感覚、リズム・呼吸・重力感覚といった非言語レイヤーにある。養老孟司が指摘してきた「身体が先に世界とつながっている」という人間観。③ 文明観:文明は「思考過剰」を常態化させる装置。この立場から見ると、文明社会は――顕在意識を前面に立たせ、人を「機能する存在」として扱い、警戒モードを常時オンにする構造を持っている。その結果、本来は補助役である思考が、人生の運転席を奪ってしまう。顕在意識の役割は企画・参謀・観察。④ 実践哲学としての含意:「悟り」は理解ではなく、配置の問題。悟り・安定・自由とは――何かを分かった状態、思考を止めた状態、高度な精神技術ではなく、生活・身体・環境の置き方が噛み合った結果、思考が自然に静まっている状態だ、という立場。釈迦が身体に辿り着いた洞察を、「修行」ではなく「生活」に引き戻した世界観。⑤ 一言でまとめるなら、「人生は、理解によって前に進むのではない。逆らわない位置に身を置いたとき、勝手に軽く回り始める。」それを思想としてではなく身体感覚。
文明と遺伝子が主役の世界において、人間は「主役」ではない。人間は、二つの巨大な流れが交差する地点に、たまたま立っている存在。しかもその立ち位置は、「支配者」でも「設計者」でもなく、
〈媒介〉〈調整〉〈気づき役〉に近い。① 第一主役:遺伝子。人間は「遺伝子の運搬体」である。冷酷に言えば、生き延びる、増える、つなぐ、この設計図を持っているのは遺伝子であって、人間の自我ではない。快・不快、安心・不安、欲望・恐怖、これらはすべて、遺伝子が文明以前から使ってきた制御信号。この軸では人間は「生きている主体」ではなく使われている媒体です。② 第二主役:文明。人間は「文明を回す部品」である。文明は、評価、分業、役割、数値化によって自己増殖するシステム。ここで人間は、労働単位、消費単位、機能単位として扱われる。この軸でも人間はやはり主役ではない。③ では、人間は完全に脇役なのか?遺伝子も文明も、自分が何をしているかを知らない。遺伝子は意味を知らない。文明は快・不快を感じない。この二つのあいだで、ズレを感じることができる唯一の存在、それが人間です。④ 人間の立ち位置:
「ズレに気づける存在」。人間にだけ、次のことが起きる。なぜ苦しいのか分からない。正しいはずなのに違和感がある。成功しているのに軽くない。これは欠陥ではなく、文明と遺伝子の設計が噛み合っていないサイン。つまり人間は、遺伝子と文明のインターフェース、あるいはエラーメッセージ表示装置、ような立ち位置にある。⑤ 世界観が効いてくる。身体を主語に戻す、潜在意識に安心を与える、顕在意識を観察に止めるという態度は、遺伝子にも文明にも回収されない位置、両方の暴走を静かに無効化する位置に、人間を置き直している。支配しない。改革しない。戦わない。ただ、噛み合う位置に戻す。⑥ 一行で言えば、文明と遺伝子が主役の世界で、人間は「運転手」ではない。だが、ズレに気づき、速度を緩められる唯一の存在である。そして、その役割は思考ではなく、身体感覚からしか起動しない。
意味や物語は、人間が「作る」というより、ズレに耐えるために「立ち上がってしまう」もの。① なぜ意味・物語が必要になるのか。まず前提として、遺伝子は「生き延びる」しか関心がない、文明は「回り続ける」しか関心がない。どちらも、なぜ生きるのか、それに耐える価値があるのかには答えない。そのまま放置すると人間は、苦しい、不条理、理由がわからないという状態に晒され続ける。ここで初めて、「これは何のためなのか?」という問いが立ち上がる。意味・物語は、この問いへの応急処置として生まれた。② 意味・物語の正体。意味や物語は――世界の真理ではない、遺伝子の目的でもない、文明の設計図でもない。それらは、ズレを人間が生き延びるための緩衝材。宗教、神話、国家、家族観、仕事観、人生観。すべて、痛みを包む、不安を言葉に変える、耐えられる形に整えるための翻訳装置。③ 分岐点。意味・物語には二つの使い方がある。A:支えとしての物語。苦しさを和らげる、行き場を与える、壊れないようにする。これは健全。B:拘束としての物語、正しさを強制する、役割に縛る、疑問を許さない。これは文明の道具になる。④ 意味はどう見えるか。身体主語の世界観では、意味は先に置かない、物語を信じすぎない、必要になったらそっと使う。つまり、意味は「居場所」ではなく「道具」。人生を回す主軸には置かない。主軸はあくまで、身体、安心、リズム、噛み合い。意味や物語は、あとから付いてくる字幕のようなもの。⑤ 一行でまとめると。人間は、意味や物語を「信じる存在」ではない。それを必要に応じて使い、使い終わったら手放せる存在である。意味を作らなくても生きられる場所を身体が知る。文明の産物とは「生き延びるために不要だが、集団を拡大・維持するために生まれたもの」。しかもそれらは、人間を楽にするためではなく、人間を機能させるために洗練されてきた。① 文明の一次産物。制度(国家、法律、会社、学校)、数値(評価、成績、KPI、偏差値、年収)、役割(職業、肩書、責任、ミッション)、時間管理(締切、スケジュール、効率)。これらはすべて、人を「交換可能な部品」として扱うための道具。遺伝子は個体を生かそうとする。文明は集団を回そうとする。そのために、個体の感覚は切り捨てられる。② 文明の中間産物(より厄介なもの)。さらに厄介なのは、内面に入り込んでくる産物。「役に立たねばならない」「意味のある人生でなければならない」「成長し続けなければならない」「何者かでなければならない」これは外部装置ではなく、内面化された文明。あなたがよく言う「顕在意識が前に出すぎる状態」は、ほぼここから来る。③ 文明の最終産物。そして、最も完成度の高い文明の産物は、不安を動力源にする思考、不安だから考える、考えるほど不安になる、それを「真面目」「向上心」と誤認する。これは文明にとっては極めて優秀なエンジン。でも人間にとっては、身体と潜在意識を摩耗させる装置。④ では、文明の産物の反対側は?反対側にあるのは、「自然」ではない(自然もロマン化すると文明になる)。反対側にあるのは、身体感覚、安心、リズム、噛み合い、何もしなくても成立する状態。つまり、文明の外ではなく、文明の下。⑤ ここで意味・物語との関係が見える。意味・物語 → 文明の副産物。だが本来は → 文明と遺伝子の緩衝材。問題は、それが主役の座を奪ったとき。文明の産物を否定していない。ただ「主語の座」から降ろしている。⑥ 一行でまとめるなら。文明の産物とは、人を生かすためではなく、人を使い続けるために洗練された仕組みである。
意味・物語は、個人を支えるあいだは緩衝材だが、集団を束ね始めた瞬間、拘束装置へと相転移する。最初の動機は、人を壊さないためだった。でも組織を維持するために、人を「壊れても動く存在」に作り替える方向へ、構造的に反転する。意味・物語は、個人を守っているうちは味方だが、集団を守り始めた瞬間、人を縛る。組織は文明の産物であり、生き物ではない。にもかかわらず、組織はあたかも生物のような振る舞いをする。存続しようとする。拡大しようとする。異物を排除しようとする。組織は人の不安を動力にして動く構造だから。組織が自らを守り始めた瞬間、人は守られなくなる。遺伝子同様の存続ロジックを理解したうえで、そこから一歩外に立つこと。遺伝子と組織が未来を向くのに対し、身体は現在に縛られている。その現在性が、存続ロジックの暴走を止める唯一のブレーキになる。
【今日の1日】晴。5時起床。家事一般。情報by新聞・TV。サイト運営。SNS受発信。オイルうがい+白湯+朝ヨガ。朝食。ゴミ捨て-ガソリンスタンド-買物@沼津-昼食-ジム-コンビニ。大相撲観戦。夕食。就寝。(一言)
【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語-自己・人間・世界を再解釈してみた」ドラフト
【OUTPUT】マンダラチャート維持
