所有しているものもあれば、他者が所有しているを賃借しているものもある。今、私が賃借しているものは、墓地(@京都と@東京)、貸金庫、駐車場、駐輪場、農園40㎡だ。
実は、この身体自体も、自然から賃借していると考えることが可能だ。身体細胞は新陳代謝を繰り返しており(1年間でほとんどが入れ替わる)、この瞬間の身体は、生々流転している/流動的な自然の一部/スナップショットで、1秒後には一部違う物質で構成される。これらは、個体のコントロール/意識なしに行われており「身体の所有者は自然であり個体がそれを賃借している」と整理可能だろう。
人間は、進化の過程で自他区別ができるようになり自己意識・自我(物理的には脳内のネットワーク)を得た(自然界で驚異的なことで、人間or高等霊長類のユニークネス)。その自己意識・自我が、それが宿る身体を天動説的に所有していると錯覚しているのだ(=自然の/地動説的な視点では賃借しているが妥当だろう)。
人間は、進化の過程で、自己意識・自我に加えて、時間の概念を得て、自らがいずれ死滅することを知り(人間の真のユニークネス)、自らの死を天動説的に大問題としてとらえている。しかし、個体が死滅すれば、それを構成していた身体物質は自然界に一気に(⇔生存中、1年間をかけて徐々に)放出され再利用されるだけの話で、自然の/地動説的な視点では個体の死などNothing Specialなのだ。
つまり、人生は、天動説に基づく自己意識・自我の一人芝居/ドタバタ劇ということ。人生は、生誕(正確には人見知り期終了時=自他区分可能)とともに自然=朝廷から、個体の征夷大将軍に任じられて、死亡時に淡々と大政奉還するイメージで「在任期間」中しっかりと業務遂行すればよいのだ(That’s it!)。身体の所有者は自然であり個体が「在任期間」中それを賃借している。生きてるだけ/意識があるだけ/「在任期間」が与えられただけで丸儲け!! そう(寿命が/意識がある間だけ、大自然から身体を借りて、この世の中で生活している)地動説的に思うと、どんな状況に置かれても結構気楽で幸せな気持ちで生きていくことができるではないか!
(引用)「本来自分のものだと、『おれが』とか、『これは私のものだ』という執着心、これがさまざまな形で人間を阻害しております。本来何一つ持って生まれたわけではなく、何一つ持って死ぬわけじゃない。これさえしっかり胸におさめておれば、ほんとに素晴らしい生き方ができるんじゃないか。これが禅の生き方。」
今、私が賃借しているものは、墓地(@京都と@東京)、貸金庫、駐車場、駐輪場、農園40㎡と自らの身体だ。これって、悟り!?
【今日の1日】6時半起床。家事一般。朝風呂。情報by新聞・TV。SNS受発信。ブログ書き。朝食。YouTube。昼食。10mTV(テンミニッツTV)。夕食。 (一言)YouTubeを卒業して、有料の10mTV(テンミニッツTV)移行!