「顕在意識があること」自体が問題なのではなく、顕在意識をどこに置いてしまったかが問題。顕在意識は本来、調整役/翻訳役/非常用ツールのはず。ところが文明環境では、常時稼働の司令塔/人生の運転手に昇格させられてしまった。これが、終わらない思考、理由のない不安、「ちゃんと生きているか」チェックの正体。宗教はみな「同じ事故」を別ルートで処理している。ストア哲学は、司令塔にしたなら、せめて訓練せよ。仏教は、司令塔から降ろせ。キリスト教は、司令塔を辞めていい。イスラム教は、司令塔は外にある。ヒンズー教は、そもそも司令塔は幻。つまり、「顕在意識をどう扱うか問題」への多様な回答。なぜ現代で問題化したのか? 狩猟採集環境では:危険が来たときだけ思考ON、普段は感覚と身体が主役、世界=生活そのもの。文明環境では:常時判断、常時比較、常時評価、常時未来シミュレーション、顕在意識が休む隙がない。
私の実践は、思考を抑え込む ❌、正しく考える訓練 ❌、問題を解決し続ける ❌、ではなく、顕在意識が前に出なくて済む生活配置を先に作った。二拠点生活、身体活動の比重、自然との接触、入力の絞り込み、役割からの撤退、これらは全部、顕在意識を非常用席に戻す設計。顕在意識は、消す対象ではない。正しい席に座らせる対象である。思考が出なくていい状態を先に用意する。問題は人生ではなく、顕在意識に人生の運転させてしまったことだった。
【今日の1日】晴。5時起床。家事一般。情報by新聞・TV。サイト運営。SNS受発信。オイルうがい+白湯+朝ヨガ。朝食。料理教室(含む昼食)-買物。夕寝。夕食。就寝。(一言)
【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語-自己・人間・世界を再解釈してみた」ドラフト
【OUTPUT】マンダラチャート維持
