2025年大晦日

約3年前、卒サラ@還暦を迎え、仕事という主軸を手放した。そこで初めて、人生が急に静かになる瞬間を経験した。止まったからこそ、それまで何が回っていたのかが見えた。予定が入り、役割が与えられ、評価が返ってくる。その流れに身を預けている限り、深く考えなくても月日は静かに巡る。私はサラリーマン時代、何となく感じる「浅さ」に、かすかな違和感を覚えつつも、そうした流れそのものを、人生だと思い込んでいた――いや、思い込もうとしていたのかもしれない。だが、その「人生を回している感」は錯覚だった。回していたつもりでいたが、実際には回されていた。天動説――世界が自分を中心に回っていたのではない。実際には、地動説――自分自身が「文明の仕組み」のまわりを回っていたのだ。それは世界観の違いというより、主語と主役が、自分から「文明の仕組み」へと、すり替わっていた状態と言うべきだろう。

<現役時代 文明の仕組みが主語>

他人軸と顕在意識の「一人芝居」で動く世界・文明参加料の「支払い期」――世界が「役割」を通じて私を動かしていた

世界→ 役割(会社・肩書・期待)→ 顕在意識(判断・言語・意思・思考)

その結果、潜在意識・身体・日常生活は、抑圧され、無視され、切断されていた。

<卒サラ時代 私が主語>

自分軸(顕在意識・潜在意識・身体が統合)で動く世界・文明参加料の「回収期」――統合された自己が、世界との関係をつくり出す

世界← 日常生活(この作りこみが決定的に重要)← 自己(顕在意識+潜在意識+身体)

統合された自己が、日常生活のあり方・整い方を通して、世界との関係を静かに形づくっていく。

狩猟採集脳(進化OS)にとって、「どう生きているか」と「世界とどう関係しているか」は分離していなかった。日常生活そのものが世界であり、生活の営みを通じて、世界との関係は自然に形づくられていた。したがって、「世界との関係が、生活のあり方を通じて静かに形づくられていく」状態は、進化OSにとって、もっとも自然で無理のない世界との接続様式である。ところが文明OS以降、とくに近代以降、この構文は反転する。世界 → 役割・制度 → 思考・判断 → 行動。この構造では、世界との関係は「役割をどう遂行したか」で評価され、生活の質は二次的なものとなる。その結果、身体や潜在意識は沈黙を強いられ、日常生活は世界との関係形成の場から切り離されていった。進化OSから見れば、これは「生活を通らずに世界と関係しようとする、極めて不自然な接続」である。だからこそ、文明社会の中で表面上はうまく回っていても、内側では、漠然とした不安、浅さや空虚感、理由のない緊張が生じやすくなる。卒サラ後に起きたのは、世界との接続回路が、進化OS仕様に戻ったということだった。世界 ← 日常生活 ← 統合された自己(身体+潜在意識+顕在意識)。この回路では、まず生活が整い、身体が安心し、潜在意識が生存モードを解除する。その結果として、他者との距離感、社会との関わり方、仕事や創作、交流のあり方が、意図せず自然ににじみ出てくる。それは戦略ではない。生態である。進化OSにとっての最適状態とは、予測可能で、繰り返し可能で、身体的に無理がないことだ。世界との関係が、生活の延長として静かに形づくられていくという感覚は、まさに進化OSが本来もっていた世界認識そのものなのである。生活OS → 進化OS → 世界観。


サラリーマン時代、私は「人生を回している」と感じていた。しかし振り返れば、それは錯覚だった。予定が入り、役割が与えられ、評価が返ってくる。その循環に身を委ねている限り、人生は自動的に進む。だが実際には、私が主語なのではなく、「文明の仕組み」が主語だった。世界が役割を通じて私を動かし、顕在意識だけが前面に立ち、潜在意識や身体、日常生活は切り離されていたのである。
卒サラ後、仕事という主軸を手放して初めて、人生が静止した。その静けさの中で、私はようやく、自分が回していたのではなく、回されていたことに気づいた。卒サラから3年の月日をかけ、顕在意識・潜在意識・身体を統合し、日常生活を整えることで、主語を自分に取り戻した。世界との関係は、役割ではなく、生活のあり方を通じて静かに形づくられていくようになった。これは、進化OSが本来もっていた世界認識そのものなのである。

【今日の1日】晴。5時起床。家事一般。情報by新聞・TV。サイト運営。SNS受発信。オイルうがい+白湯+朝ヨガ。朝食。庭整備(含むコンポスト)。昼食。家内整備。昼寝。買物。ChatGPT。夕食。紅白歌合戦視聴。就寝。(一言)2025年終了!

【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)心配事の9割は起こらない 枡野俊明

【OUTPUT】マンダラチャート維持

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