満足感

かつて私は、満足感とは一瞬で消えるものだと思っていた。だが今は、満足感にも「持続する形」があることを知った。睡眠を皮切りに生活OS全般を手入れして得た満足感は、条件を満たしたときに一瞬だけ点灯する感情ではなく、その状態が整っている間、静かに持続するもののようだ。

現役時代、私が「満足」を感じていた瞬間を振り返ると、その多くは結果や評価と結びついていた。仕事をやり切ったとき、数字が出たとき、周囲から一定の評価を得られたとき。そこには達成感があり、納得感もあった。しかしその満足は、振り返ってみるとどこか表層的で、長くは続かなかった。「満足」を感じた次の瞬間には、すでに消えかけていた。次の課題、次の責任、次の評価がすぐに視界に入り、満足感は短時間で霧散していった。

今なら、その「瞬間芸」の構造を理解できる。当時の満足感は、顕在意識の中で完結していた。目標を設定し、努力し、結果を出し、それを「良し」と判断する。満足とは、判断であり、評価であり、意味づけだった。舞台に立っていたのは、顕在意識だけだった。身体がどう感じているか、潜在意識が安心しているかは、ほとんど考慮されていなかった。むしろ、満足感・達成感・納得感を得る過程で、多少の疲れや違和感があっても、「まだいける」「今は踏ん張りどころだ」と、顕在意識が無理強いをすることが多かった。

卒サラ後2年間は無自覚に、3年目からは自覚的に、生活の重心を「運営」に移したことで、この順序が反転した。まず整えるべきは、予定でも目標でもなく、日常の状態──生活OS──になった。睡眠、食事、動き、空間、時間の流れ。身体に無理がなく、潜在意識が警戒モードに入らない状態を丁寧につくる。すると、ある日ふと、「今日はいい一日だったな」という感覚が、理由抜きで立ち上がってくるようになった。

その満足感は、達成の結果ではない。何かを成し遂げたわけでも、評価されたわけでもない。ただ、無理がなく、違和感が少なく、静かに回っていた一日。その状態を、顕在意識が後から「満足」と呼んでいるにすぎない。現役時代の満足が顕在意識の一人芝居の産物だったとすれば、今の満足は、潜在意識と身体が感じる状態の副産物だ。この賞味期限は一瞬ではなく、一定の間続く。

この気づきによって、生活OSをしっかり整えることの重要性をあらためて確認した。本質的な転換だとも思う。人生の後半を長く回し続けるために必要なのは、満足を「つくりに行く」ことではない。満足が自然に立ち上がる状態を、日々淡々と整え続けることなのだ。

満足感だけでなく、安心感や納得感も、同様だった。

現役時代、私にとって安心感は、常に条件付きのものだった。仕事があり、収入があり、役割を果たしているあいだは安心できる。だが、その条件が一つでも揺らげば、安心感は簡単に崩れた。評価が下がるのではないか、取り残されるのではないか、次も同じように回せるのか。安心とは、守り続けなければならない対象であり、油断すれば失われるものだった。

この安心感は、顕在意識の管理下にあった。状況を分析し、先を読み、対策を考え、「大丈夫だ」と自分に言い聞かせる。安心するためには、常に思考を働かせ続ける必要があった。その結果、何も起きていない時間でさえ、どこか落ち着かない。安心しているはずなのに、身体は緩まず、潜在意識は警戒を解いていなかった。

卒サラ後、生活OSを整える過程で、安心感の性質が静かに変わっていった。大きな出来事があったわけではない。むしろ、何も起きていない時間が増えた。睡眠が安定し、予定が詰まりすぎず、日々の流れに無理がない。その状態が続くうちに、説明のいらない安心感が、背景として広がっていることに気づいた。

この安心感は、条件によって成立していない。役割を果たしているからでも、先が読めているからでもない。身体が落ち着き、潜在意識が警戒モードに入っていない。その状態が、安心感そのものだった。顕在意識は、安心しようとしているのではなく、すでにある安心に気づいているだけだ。

安心感は、守るものではなかった。整えておく状態だったのだ。この違いは、前述の満足感と同様に、人生の後半を回すうえで決定的だ。条件が変わっても揺れにくい安心感が、静かな基盤として残るようになった。

納得感もまた、同じ構造を持っている。

現役時代、納得感は思考の成果だった。悩み、比較し、検討し、最終的に「これでいこう」と結論を出す。そのプロセスを経て初めて、私は納得したと感じていた。納得とは、考え抜いた末に到達する地点であり、自分を説得する行為でもあった。

だが、この納得感は重かった。時間もエネルギーも消費するうえ、出した結論が本当に正しかったのか、あとから何度も揺れた。別の選択肢が頭をもたげるたびに、再び考え直しが始まる。納得したはずなのに、完全には終わらない。この構造もまた、顕在意識が主役の世界にあった。

卒サラ後、生活の重心が「判断」から「運営」に移るにつれ、納得感の現れ方が変わった。以前のように深く考えなくても、「これでいい」という感覚が残る選択が増えた。理由を並べなくても、後から違和感が出てこない。説明は弱いが、感覚としては強い。

この納得感は、思考の結果ではない。身体と潜在意識が拒否していない選択をしたときに、自然に残る感覚だ。無理がなく、緊張が積み上がらない。その状態を、顕在意識が後から「納得」と呼んでいるにすぎない。考えなくなったのではない。考えが主役でなくなったのだ。

考え抜いた以前の納得感には、常に更新が必要だった。状態から生まれる納得感は、時間に耐える。人生の後半に必要なのは、すべてを論理で固めることではない。あとから揺り返しが来ない選択を、静かに積み重ねていくことだ。そのために、納得感は「到達点」ではなく、「結果として残る感覚」へと姿を変えた。

振り返ってみると、安心感、納得感、満足感は、別々に獲得するものではなかった。

現役時代の私は、それらを個別の課題として扱っていた。まず不安を消し、次に理屈で納得し、最後に満足しようとする。だがこの順序では、どれか一つを得ても、他がすぐに揺らぐ。安心しているはずなのに納得できず、納得しているはずなのに満足が続かない。三つは常に分断されていた。

その理由は明確だ。三つとも、顕在意識の操作対象になっていたからである。安心するために考え、納得するために考え、満足するために意味づける。だが、顕在意識が個別に操作できるのは、せいぜい一時的な感覚だけだ。身体と潜在意識が追いついていない状態では、三つが同時に成立することはなかった。

卒サラ後、生活の重心を「判断」から「状態」に移したことで、逆の現象が起き始めた。睡眠、食事、時間配分、空間、活動量。日常の基本を整え、無理の積算を減らしていく。すると、ある時点から、安心・納得・満足が区別なく、ひとまとまりとして立ち上がる瞬間が増えていった。

このとき、私は安心しようとも、納得しようとも、満足しようともしていない。ただ一日が無理なく回っていた。その結果として、身体は緩み、潜在意識は警戒を解き、顕在意識が「悪くない」「これでいい」と静かに認識する。三つは順番に生まれるのではなく、同じ状態から同時に滲み出てくるのだ。

この統合状態では、安心は背景として続き、納得は揺り返さず、満足は一定時間持続する。どれか一つを失うと他も崩れるものの、状態が保たれている限り、三つは自然に共存する。人生の後半を回すうえで重要なのは、三つの感覚を追いかけることではない。それらが同時に立ち上がる条件を、日常の中に静かに整え続けることだ。

安心・納得・満足は、目標ではない。整った状態に付随して現れる、結果の三兄弟なのである。

【今日の1日】晴。5時起床。家事一般。情報by新聞・TV。サイト運営。SNS受発信。オイルうがい+白湯+朝ヨガ。料理(スワンラータン)。朝食。執筆。ChatGPT。昼食。執筆。買物。夕食。就寝。(一言)

【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)心配事の9割は起こらない 枡野俊明

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