身体主義

身体を主語に戻す―― 世界と関係し続ける身体OSとしての人間

【前提】前章まで、私はOSを主に潜在意識を説明するための道具として用いてきた。だがこの章では、OSを、身体・潜在意識・顕在意識がどのように役割分担しながら人生を運用しているかを記述する言葉として用いる。

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私が辿り着いたのは、考え方を変えることでも、価値観を書き換えることでもなかった。身体を、人生の主語に戻すことだった。

長い間、私は、人生とは「考え」「判断し」「選択する」ことで前に進むものだと信じてきた。思考と意志こそが、自分を動かすエンジンだと疑わなかった。だが、卒サラ後の3年間を経て、はっきりと分かったことがある。

思考は、人生を回してはいなかった。身体が、常に先に生きていた。

よく観察してみると、安心も、不安も、納得も、違和感も、すべてはまず身体の状態として現れていた。睡眠が乱れると、思考は攻撃的になる。生活が落ち着くと、価値観は静かに整理される。無理な社会接続が続くと、理由の分からない疲労が溜まる。

私はようやく気づいた。人生を先に引き受け、世界と直接やり取りしているのは、常に身体だったのだと。

思考は、身体と環境の関係が生んだ結果を、あとから言葉にしているにすぎない。

身体主義とは、理性を否定することではない。「頭を使うな」という主張でもない。むしろ逆だ。思考を主役から降ろし、企画・参謀の位置に戻すことである。

本来、人間は、まず身体が世界と関係を結び、その関係全体を潜在意識が統合・調律し、思考は必要なときに、言語化や調整を行う――この順序で生きてきたはずだ。

言い換えれば、人間はもともと、身体OSを最前線に、潜在意識OSを中核に、顕在意識OSを補助輪として人生を回してきた存在だった。ところが、農耕開始以降の文明社会では、顕在意識OS――すなわち思考・判断・評価――が前に出過ぎ、身体と潜在意識は、長く無視されてきた。

私の違和感の正体は、能力や努力の不足ではなかった。主語の取り違えだった。私は生活を「整えた」のではない。身体に戻ったのだ。

卒サラ後、私が行ったのは「人生を良くする工夫」ではない。生活リズムを整え、空間を絞り、接続先を減らし、評価軸を外した。

それは改革ではなく、復帰だった。身体OSが想定しているスケールと速度に、生活を戻しただけだった。

その結果、満足・安心・納得が、努力なしに同時に立ち上がるようになった。これは気分の問題ではない。

身体主義的に見れば、OSが正しい順序で起動しただけなのだ。

人生後半は、身体主義でしか回らない。年を重ねるほど、思考で無理に押し切る生き方は破綻しやすくなる。それは衰えではない。身体が、人生の主導権を取り戻そうとしているサインである。

人生後半に必要なのは、新しい理想でも、新しい努力でもない。身体を主語に据え直すことだ。

私は今、人生を「どう成功させるか」ではなく、「身体が引き受けられる形で、どう回し続けるか」という問いで生きている。

これが、私の身体主義だ。

人間とは、思考で世界を操作する存在ではない。世界と関係し続ける身体を基盤に、潜在意識と顕在意識というOSを重ねて生きている存在である。

身体主義とは、人間を「考える存在」としてではなく、世界と関係し続ける身体OSとして捉え直す立場である。そして私にとってそれは、思想ではなく、卒サラ後の生活そのものになった。

私の卒サラ物語は、「文明適応脳」を本来の「狩猟採集脳」に戻したという話だ。それは、顕在意識が主役だった人生を終え、身体OSを最前線に、潜在意識を中核に据え直した、人生の再起動の物語だった。

【今日の1日】晴。5時起床。家事一般。情報by新聞・TV。サイト運営。SNS受発信。オイルうがい+白湯+朝ヨガ。朝食。執筆。昼食。家計事務。執筆。大相撲観戦。大河ドラマ鑑賞。夕食。就寝。(一言)

【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語-自己・人間・世界を再解釈してみた」ドラフト

【OUTPUT】マンダラチャート維持

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