ブッダの凄さ

最近の私の興味は人類史と脳科学だ。仏教が唯識など意識の問題を取り上げてきたからか、このテーマの関連事項をネット検索していくと、仏教の情報・動画が検索結果として含まれることが多々ある。それも、〇〇宗というのではなく「ブッダが言ったことによると。。。」のようなコンテンツが多い。その流れの中で、①今の日本の仏教は、各宗派が微に入り細に入り状態で、ブッダの教え(原始仏教と言われる)から、相当程度遊離していること、②ネットを使う先進的な仏教界の人はそのことを良く理解しておりブッダの言動を多用して仏教概念を説明し始めているを知った。各宗派が主張していることは、我が家の宗派である浄土宗を含めて、何を言おうとしているのか正直よくわからないものが多いが/ピンとくるものが少ないが/布教のために相当程度カスタマイズされていおりブッダの教えから相当程度遊離していると思われるが、ブッダの言動には納得感があるものが思いのほか多くある。ブッダの教えの本質は詰まる所「死を正面から捉えた上で生を充実させよ」「右往左往する心をしっかりコントロールせよ」だろう。私(中高大はキリスト教プロテスタントの学校だった)は、宗教関連の話を聞くとき、一神教の絶対神とか「日本の仏教」の輪廻(前世/来世)とかには、興ざめしてしまうが、これなら合点がいく。

人類史と脳科学の知見では、人間以外の動物には「現在」認識しかなく「未来」がなく、必然的に自己の死の認識は無い。自己の死の認識は人間固有の苦痛なのだ。実は、死の認識どころか、人間以外の動物には自己意識・自我がない(高等霊長類にはあるとする学説はある)。つまり、人間以外の動物は、犬やサルの芸に代表されるように多少後天的なプログラムで動く部分もあるが、基本的には遺伝プログラムに沿って自然/外界との境界も曖昧なままで(人間からすると/チコちゃんからすると)ぼーっと生きているだけの/外界に直接的に反応しているだけの存在なのだ。一方、人間は、発達した脳で自己の死を認識するに至り、有限の時間を目的と意志をもって、外部環境情報、内部身体情報、後天的に/経験を積み重ねて形成された価値観等を総合的に判断して日々/一瞬一瞬行動を決めている(自由意志を持って意思決定をして行動し続けている)。目的と意志をもって活動を続ける人間にとって自己の死は実に扱いにくい/できれば考えるのも避けたいテーマである。話はずれるが、人間の体は、物質的には1年間でほぼ入れ替わるように、明らかに自然の一部だ(自然からすれば、個体が死滅すれば、それを構成していた身体物質は、自然界に1年かけて徐々にではなく一気に放出されるだけの話で、個体の死などNothing Specialだ)。人間の高度な脳(=心)が、その身体を所有している感覚に陥り、その将来の死を前に右往左往しているだけなのである(天動説!)。ブッダの教えは、平たく言えば、「天動説は間違いで、正しくは地動説。それに早く気づけ」「すべては脳(=心)認識の問題/一人芝居」(自分中心に世界/自然があるのでなく、自分は世界/自然の単なる一部。自己の一部である脳=心が、間違った所有感覚の元、将来の死の前にして右往左往しているだけ)と言っていると理解している。

ブッダの凄いところは、2600年前に人類史と脳科学の知見がなく、厳しい修行を通じた得た人間という動物への洞察でその境地・認識に達したことだ。一方で、現代の人類史と脳科学の知見に基づき人間理解を深めれば(≒ブッダの修行)、この私でも(他者に対する迫力・説得力は限定的と思うが、)少なくとも自分に対しては自信をもってそのように言い切れる。人生は生ある/意識がある限り精一杯生きるもの。それ以上でも以下でもない、まさにそれでピリオドだ。ブッダは一神教が主張する神とか「日本の仏教」が主張する死後の世界に言及などしなかった! 人間や人間の心を突き詰めて悟れと言った。これなら腹落ちする。

【今日の1日】5時半起床。家事一般。情報by新聞・TV。SNS受発信。ブログ書き。朝風呂。朝食。農園-温泉-昼食-買物-ガソリンスタンド。夕食。(一言)上腕打撲が完治に向かっていることを実感する! 就寝中の朝方はまだまだ苦しいが。。。

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