右肩打撲で外出活動が制限される中、過去2ヵ月間で7つのエッセー(人間観、認知観、宗教観、人生観、生命観、仏教観、幸福観)を完成させたところで立ち止まってみる。今、思うのは、読み書きだけでは、自身の血・肉にならないということ。書くというプロセスは重要だ。
ユヴァル・ノア・ハラリ氏「サピエンス全史」や人類学者の長谷川眞理子氏の知見に導かれて、視野を日常生活から一気に、人類史600万年・ホモサピエンス史20万年に広げで、人間に対する洞察力を深めた。詰まるところポイントは、進化の結果/過程としての脳だと理解した。
昨今、脳科学に加えて、AI開発目的に脳を研究している人が散見され、「ロボットに心を」を掲げる田方篤志氏の知見を参考にしながら脳の認知に対する認識を深めた。人間は、意識が無意識と協働して現実世界だけでなくと種々の想像世界(現実世界以外の目に見えない世界@脳)を同時に認識しながら生きるために総合的に判断→行動をしていることを理解した。
心をgoogle検索していくと、やたらブッダの話が出てくるので、以前から「なぜ人は宗教を求めるのか」に興味があり、また、旧統一教会の洗脳問題もあったので、宗教について、浄土真宗の菊谷隆太氏や筬島正人、福厳寺住職大愚元勝住職の知見も参考にして、一気に私の考えをまとめた。人が「心の平穏」を得るには二者択一で「人間とは何かを自力でトコトン考察する」or「特定宗教に全権委任する」ということだと理解した。後者を選んだ人が特定宗教の信者になり「心の平穏」を得ようとするが、私は前者を徹底的にやるぞと誓った。
その後、人間・認知・宗教に関する深まった認識に加えて、ブッダやマザーテレサの言動も参考に私の人生観をまとめてみた。人間は、無意識⇔意識の連携を理性(←知見を積み重ねて一定レベルの理性を作れば「心の平穏」のための宗教は特に必要ではなくなる)でコントロールしながら、足元しっかり淡々と生きればそれでよいのだと締めくくった。
ところで、意識が宿るのは生命ということで生命についてまとめた。書きながら気が付いたが、人間は他人事には客観的だが、自分のこと(この場合、自己の生命)については、主観的で偏った認識をしていることをに気が付いた。で、「自己の身体の自己所有感は幻想」「すべての認識は脳内世界がつくる」「物質世界は自己の身体を含めて自然の中の大きな循環の単なるひとつの渦の集合体」と腹落ちした境地を仏教では「悟り」「無明の闇を破った世界」「色即是空・ 空即是色」と言うのでないかと感じた。同時に、この辺りのこと言語化して説明することがホント難しいとも感じた(仏教が迷走しやすい理由!?)。
ブッダが人類学・脳科学の未発達な2600年前にこの境地/認識に達したことに驚いたが、同時に、ブッダの言動と日本で日常接する仏教とは大きなギャップがあることに気が付いた。調べてみると、ブッダの教え(初期仏教)が日本に紹介されたのは明治以降で、日本人は1300年間も仏教の本質は「気づきの宗教」なのに一神教的に「信じる宗教」と誤解してきたことを理解した。この辺りを仏教観でまとめた。仏教については、ブッダから日本伝来まで1000年、それからブッダの本質に気が付くまでにさらに1300年だ!
心に対する興味は必然的に「幸せとは何か?」の方を向き、幸福学者の前野隆司氏の知見も参考にして幸福観をまとめた。最近、「やってみよう!←自利」「ありがとう!←多利」「なんとかなる!←根拠のない自信」「自分らしく!←自尊心」が口癖になった。
【今日の1日】6時起床。家事一般。朝風呂。朝食。情報by新聞・TV。ルンバの2回目掃除モニター。YouTube。昼食。サイト運営。喫茶店-買物。夕食。 (一言)最近は、SNSで、また、結構まとまった情報でもYouTube等の動画で、だれでも発信できるすごい時代だ。この日次ブログもこれが301回目だ。