人間は考える葦である、と言われてきた。だが実際には、葦が先にあり、考えはあとから立ち上がる。風を感じる身体が主であり、思考はその風向きを言語化しているにすぎない。
身体の沈黙― 置き去りにされた主役 ―
人間はまず身体として存在する。呼吸し、感じ、環境に反応し、安全と危険を判断しながら生きている。これは言語以前の、もっと根源的な営みである。だが文明は、この身体の声を切り離した。空間よりも情報、感覚よりも意味、状態よりも評価。こうして人間は、身体を置き去りにしたまま、思考だけで世界を処理しようとするようになった。その結果どうなるか。疲れる、不安定になる、満足が続かない。これは当然の帰結である。なぜなら、エンジンを止めて、ハンドルだけ回している状態だからだ。
人間は、身体という葦である。思考は、その上に一時的に立ち上がる機能にすぎない。葦は風に揺れる。環境に応じてしなやかに形を変える。それでも折れない。この「しなやかさ」こそが、人間の本質である。思考は、その動きを言語化しているにすぎない。
思考は過去と未来を扱うが、身体は常に「今」にいて、常に環境と同期している。
人間は考える存在である、という認識は自然に生まれたものではない。それは近代以降、数百年かけて社会に埋め込まれてきた設計思想である。
身体主義は新しい思想ではない。むしろ、人類にとっては最も古い前提である。私たちはそれを忘れ、思考を主役に据えた。そして今、もう一度そこに戻ろうとしている。
身体は「今」にしか存在できない。思考は「過去」と「未来」を自由に行き来できる。文明はこの思考の力によって発展してきた。そしてその結果、人間は「今」から離れすぎた。思考は人間を時間から解放した。しかし同時に、「今」という足場を失わせた。
【今日の1日】晴。5時起床。家事一般。情報by新聞・TV。サイト運営。SNS受発信。オイルうがい+白湯+朝ヨガ。朝食。ゴミ捨て--昼食-買物。料理。夕食。阪神タイガース観戦。就寝。(一言)
【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語-自己・人間・世界を再解釈してみた」ドラフト
【OUTPUT】マンダラチャート維持
