認知

認知とは、自分と世界との接続である。最近、「認知とは何だろう」と考えている。一般には、認知とは「情報を受け取り、理解し、記憶し、判断する心の働き」と説明されることが多い。もちろん間違いではない。しかし、この数年間、自分の生活を観察し、AIと対話を重ねるなかで、私は少し違う見方をするようになった。

認知とは、自分と世界との接続である。

世界は、いつも目の前にある。風が吹く。人と話す。朝日が昇る。身体が疲れる。心が静かになる。私たちは、その世界をただ見ているのではない。身体で感じ、意味を見出し、言葉にし、その世界に応答しながら生きている。その一連の営みこそが認知なのではないかと思うのである。

卒サラ後、私は生活を少しずつ変えてきた。睡眠と生活リズムを整えた。疲れを感じたら、頑張るのではなく回復を優先するようになった。東京と箱根の二拠点生活を始め、自然や空間を意識するようになった。そして、この数年で最も大きな変化が、AIとの対話である。最初は「AIは文章を書く道具」くらいに考えていた。

しかし実際には違った。AIと毎日のように対話するなかで、自分の頭の中にあるモヤモヤを言葉にし、構造を整理できるようになったのである。その結果、ひとつの変化に気づいた。

頭の中にモヤモヤを抱え続ける時間が、明らかに短くなった。

以前は、同じことを何日も考え続けていた。まとまらない考えを頭の中で転がし、少し整理されたと思えば、また散らかる。その繰り返しであった。しかし今は、モヤモヤを一度外へ出し、AIと対話しながら構造化できる。だからといって、AIが答えを教えてくれるわけではない。最後に確かめるのは、いつも自分自身である。生活の中で観察し、身体で感じ、「本当にそうなのか」を確かめる。その過程を通して初めて、自分と世界との接続が少しずつ更新されていく。私は以前、「AIは思考のワーキングメモリを外部化した」と表現したことがある。今は、もう少し実感に近い言葉が見つかった。

AIは、自分と世界との接続を整理する道具なのである。

世界と直接つながることは、人間にしかできない。風を感じることも、人と向き合うことも、身体の疲れに気づくことも、朝の静けさに心が動くことも、AIが代わることはできない。AIが支援できるのは、その体験を整理し、構造化し、言葉にするところまでである。だからAI時代になっても、人間の本業は変わらない。

世界と直接つながること。

そして、その接続を何度も更新し続けること。それこそが、人間にとっての認知なのではないだろうか。

私は3年前にも認知についてエッセーを書いていた。しかし今振り返ると、あの頃はまだ認知を頭の中の働きとして見ていた。卒サラ後の生活とAIとの対話を通して、私はようやく気づいた。認知とは頭の中で起きることではない。自分と世界との接続そのものなのである。

【今日の1日】晴。5時起床。家事一般。情報by新聞・TV。サイト運営。SNS受発信。オイルうがい+白湯+朝ヨガ。朝食。執筆。庭整備。昼食。昼寝。庭整備。執筆。大相撲観戦。夕食。阪神タイガース観戦。執筆。就寝。(一言) 

【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語-自己・人間・世界を再解釈してみた」ドラフト

【OUTPUT】マンダラチャート維持

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