「空」

「空」とは、モデルを現実そのものだと思わないこと?

最近、「モデル」という言葉が、自分の中で急に重要になってきた。世界モデル。自己モデル。お金モデル。人間は複雑な現実をそのまま扱うことができない。だから現実の一部を切り取り、圧縮し、意味づけして、「世界はだいたいこうなっている」というモデルを作る。その世界モデルの中に、「私はこういう人間である」という自己モデルを置く。さらに、「お金とはこういうものだ」「仕事とはこういうものだ」「夫婦とはこういうものだ」「老後とはこういうものだ」という無数のモデルを作る。そして、そのモデルを使って次の行動を決める。ここまで考えて、ふと思った。これは仏教でいう「空」と、どこかつながっているのではないか?

モデルは現実ではない

モデルについて考えるとき、一番分かりやすいのは地図だ。地図は現実ではない。東京の地図には、実際の東京に存在する木一本一本も、人の表情も、匂いも、風も描かれていない。必要なものだけを抜き出している。しかし、だからこそ役に立つ。つまりモデルとは、複雑な現実を、生きるために使える形に圧縮したものなのだと思う。人間の思考も同じことをしている。「あの人は信用できる」「自分はこういう性格だ」「これは危険だ」「これくらいのお金があれば安心だ」「老後はこういうものだ」現実そのものではない。大量の経験から作った、現時点での仮説である。

問題は、モデルを持つことではない

人間はモデルなしには生きられない。毎朝、世界をゼロから理解し直していたら何もできない。昨日までの経験を圧縮してモデルを作り、「だいたいこうだろう」と予測して行動する。だからモデルを作ること自体は問題ではない。むしろ、生きるために必要な機能なのだろう。問題は別のところにある。いつの間にか、モデルを現実そのものだと思い始めることである。「私はこういう人間だ」が、「私はこういう人間に違いない」になる。「今はこれくらいのお金が必要だ」が、「これだけ持っていなければ安心できない」になる。「会社ではこう生きるとうまくいった」が、「人生とはこう運営するものだ」になる。仮説だったものが、いつの間にか「実体」になる。

サラリーマンとしての「私」もモデルだった

自分自身を振り返ると分かりやすい。私は37年以上サラリーマンをやった。長い時間をかけて、「するべきことをする私」「予定を管理する私」「成果を出す私」「問題を解決する私」「資産を作る私」「人生をきちんと運営する私」という自己モデルが作られた。このモデルは非常に優秀だった。サラリーマンとして生きるには、とても役に立った。だから長年使い続けた。しかし会社を辞めると、環境が変わった。環境が変わったのだから、本来はモデルも変えなければならない。ところがモデルは、そのまま残る。だから卒サラ後もしばらく、「今日は何をするべきか」「もっと有効に時間を使えないか」「何か成果を出さなければ」と考えていた。今から見ると、以前の環境で非常によく機能したモデルを、環境が変わった後も使い続けていたということなのだろう。

「本当の私」を探していた

卒サラした頃、どこかで、「会社員という殻を脱げば、本当の自分が出てくる」と思っていた気もする。しかし最近は、それも少し違うと思っている。会社員の自分が偽物で、その下に本物の自分が隠れていたわけではない。サラリーマン時代の自分も、その時点では確かに私だった。今の自分も私である。しかし、どちらも固定されたものではない。身体。環境。人間関係。年齢。経験。役割。記憶。こうした条件が変われば、自己モデルも変わる。だとすると、「これこそ本当の私である」という固定した実体を置かなくてもよいのではないか。ここで、初期仏教の「無我」が急に身近に感じられてくる。

無我とは「私は存在しない」ではない

「無我」という言葉を聞くと、「自分など存在しない」という少し極端な話に聞こえる。しかし私には今、「固定され、独立し、変わらない『私』を置かなくてもよい」という意味に聞こえている。身体が変わる。感覚が変わる。考えが変わる。人間関係が変わる。環境が変わる。それによって「私」も変わる。自己とは固定した「もの」というより、さまざまな条件から、その都度立ち上がってくるプロセスなのではないか。

そして「縁起」

ここまで来ると、「縁起」という言葉も生活の中に降りてくる。自分だけで「私」が成立しているわけではない。妻との関係の中での私。子どもとの関係の中での私。友人との関係の中での私。東京にいる私。箱根にいる私。海外にいる私。書いている私。歩いている私。それぞれ少し違う。条件が変われば、そこに立ち上がる自己も変わる。つまり、これがあるから、これがある。これが変われば、これも変わる。自己も関係の中で成立している。これが「縁起」という考え方と重なって見える。

では「空」とは何なのだろう

「空」は初期仏教にも現れるが、後の大乗仏教で大きく展開された概念だという。だから、現代の「モデル」という言葉と単純に同一視するのは乱暴だろう。それでも、自分の日常へ引き寄せて考えると、とても面白い。例えば1万円。1万円札という物体は存在する。そして実際に物を買える。しかし、その1万円が「大金なのか、小さなお金なのか」という意味が、紙幣そのものに入っているわけではない。20歳の私。40歳の私。64歳の私。それぞれ意味が違う。収入によっても違う。資産によっても違う。残りの人生によっても違う。つまり1万円の意味は、それ単独で固定的に存在しているのではなく、さまざまな関係の中から生まれる。これが「空」という考え方に少し近いのではないか。「何もない」という意味ではない。むしろ、それ自体で固定的・独立的に成立している実体として捉えない。

モデルを実体化すると更新できなくなる

ここで、仏教とモデル論が自分の中でつながった。モデルを作ることは問題ではない。人間には必要である。問題は、モデルを実体化することなのではないか。「私はこういう人間だ」「お金とはこういうものだ」「仕事とはこういうものだ」「老後とはこういうものだ」というモデルを、現実そのものだと思い込む。すると、新しい現実が目の前に現れても見えなくなる。モデルに合う情報だけを拾う。そしてモデルの中だけで考え続ける。最近、私はこれを強く感じる。ひとりで同じ問題を考え続けていると、あるところから前へ進まなくなる。なぜなら、並べ替えているだけになるからだ。

現実がモデルを壊す

ところが人と会う。歩く。違う場所へ行く。身体を動かす。新しいことをやってみる。すると、「あれ?」が起こる。思っていたことと現実が違う。この違和感が重要なのだろう。モデル→現実と出会う→ズレる→違和感が生まれる→観察する→考える→モデルを更新するこの循環が回り始める。だから、現実と出会わなくなると、モデル更新が止まる。そしてモデル更新が止まったまま考え続けると、思考は同じ場所をぐるぐる回る。

「空」を生活の言葉へ翻訳すると

私は宗教家でも仏教学者でもない。だから「空」を厳密に定義しようとは思わない。ただ、自分の生活に使える言葉へ翻訳するとしたら、今はこう感じている。「自分が見ているものは、現実そのものではないかもしれない。」もう一歩進めれば、「これは今の自分が使っているモデルにすぎないかもしれない。」そう思える余白を残しておく。自己モデルにも。お金モデルにも。仕事観にも。夫婦観にも。老後観にも。人生観にも。どんなモデルにも、小さく、「仮」と書いておく。それだけで、モデルは更新可能になる。

モデルは壊さなくてもよい

ここで最近、少し気が楽になったことがある。昔の自己モデルを否定する必要はない。サラリーマン時代の私は間違っていたわけではない。あの環境では、非常によく機能した。お金を貯めようとしてきた自分も間違いではない。人生のあの時期には、それが合理的だった。ただ、使用環境が変わった。それだけなのかもしれない。だから昔のモデルと戦わなくてもいい。「ああ、これはモデルだったのか」と気づけばいい。そして現実をもう一度見る。必要なら更新する。人間の本業は、現実と出会うこと

ここまで考えると、以前から考えている一つの言葉へ戻ってくる。人間の本業は、現実と出会うこと。身体を持つ人間は、現実に触れることができる。歩く。見る。聞く。触る。食べる。人と会う。失敗する。驚く。違和感を持つ。そこで得たものを思考が編集し、モデルを更新する。そして新しいモデルで、もう一度現実へ出ていく。現実→観察→思考→モデル→行動→新しい現実→また観察この循環なのだろう。そう考えると、「空」という古い言葉が、突然かなり現代的に見えてくる。モデルを持つな、という話ではない。モデルを現実そのものだと思うな。自己を持つな、という話でもない。現在の自己モデルを、固定された「本当の私」だと思うな。そして、ときどきモデルの外へ出て、現実と出会う。そこで「あれ?」と思ったら、その違和感を大切にする。もしかすると、その瞬間こそ、古いモデルが緩み、新しい世界が見え始めている瞬間なのかもしれない。

【今日の1日】5時起床。家事一般。新聞+サイト運営。白湯+オイルうがい+ピラティス。朝食。ルンバ。宿泊準備。庭整備。熱海宿到着-商店街-昼食(ピザ)-喫茶-熱海宿-温泉-知人夫婦と部屋宴席。就寝。(一言) 

【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語― 人間の設計思想を再発見する物語」ドラフト

【OUTPUT】マンダラチャート維持

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