境界を伸縮自在に運用

「固定自己」から「流動自己」へ―― 卒サラ後、私の中で起きていたこと ―

会社という大きな構造から離れ、役割が薄れ、予定が減り、肩書が静かに消えていく中で、私は一時、不思議な感覚を抱いていた。「自分が薄くなったような感覚」である。現役時代の私は、かなり「固定自己」寄りで生きていたのだと思う。

私は何者か。
どんな役割を担っているか。
どの組織に属しているか。
何を達成しているか。
どう評価されるか。

現代社会では、こうした「明確な自己」が強く求められる。

境界をはっきりさせること。
役割を明確にすること。
所有を確定すること。
責任範囲を分けること。

文明社会は、「固定された境界」によって動いている。

会社もそうだ。
契約もそうだ。
肩書も、資格も、評価もそうである。

そのため現代人は、知らず知らずのうちに、「強く、明確で、個体化された自己」を育てていく。もちろん、それ自体は悪いことではない。文明社会を回すためには必要な能力である。

しかし一方で、その状態が長く続くと、人は少しずつ疲れていく。なぜなら本来の人間は、そこまで固定的な存在ではないからだ。振り返ると、卒サラ後の数年間、私の中で起きていたのは、

「固定自己」から「流動自己」への調整

だったのかもしれない。

最初は空洞感だった。

役割が減る。
予定が減る。
他者評価が減る。
「名札」を使う場面が減る。

すると、自分の輪郭がぼんやりしてくる。しかし今振り返ると、それは「自分を失った」のではなく、「固定され過ぎていた自己境界が、少し柔らかくなった」ということだったのだと思う。興味深いのは、人間は本来、もっと流動的な存在だということである。

家族の中では境界が柔らかい。
夫婦では感情が相互浸透する。
自然の中では自己感覚が拡張する。
芸術や音楽に没入すると、「自分」が少し薄くなる。
スポーツ観戦や祭りでは、共同体と一体化する。

つまり人間は本来、「境界を伸縮自在に運用する生き物」だったのではないだろうか。

ところが現代社会では、固定境界モードが長く続く。

常に個として競争し、
比較され、
説明を求められ、
自己責任を背負い続ける。

その結果、「波」としての自己ばかりを意識し、「海」とのつながりを見失いやすくなる。私自身、卒サラ後に生活OSを整える中で、少しずつ感覚が変わっていった。

睡眠を整える。
朝ヨガをする。
自然の中で過ごす。
夫婦で静かな時間を共有する。
身体の快・不快を観察する。
無理な予定を減らす。
「今ここ」を味わう。

すると、「固定自己」の緊張が少しずつ緩み始めた。もちろん、自己が消えたわけではない。社会生活では、今でも「個」として動いている。しかし以前ほど、

「自分を守らなければ」
「何者かでなければ」
「評価され続けなければ」

という感覚に縛られなくなった。必要な時は個として動く。しかし同時に、世界との連続性も感じられる。波でありながら、海でもある。そんな感覚に少しずつ近づいている気がする。そして今思うのは、現代人の苦しさの一部は、「自己を固定し過ぎたこと」から生まれているのかもしれない、ということである。

本来の人間は、もっと柔らかく、もっと流動的で、もっと世界とつながった存在だったのではないだろうか。

【今日の1日】晴。5時起床。家事一般。情報by新聞・TV。サイト運営。SNS受発信。オイルうがい+白湯+朝ヨガ。朝食。執筆。買物。料理。昼食。執筆。ジム・スイム-8人宴席@千駄ヶ谷。就寝。(一言)阿部巨人監督逮捕! 阪神戦3連敗で心がざわついていたのか。。。

【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語-自己・人間・世界を再解釈してみた」ドラフト

【OUTPUT】マンダラチャート維持

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