最近、ChatGPTとの対話をしていて、不思議な感覚になることがある。まるで自分の潜在意識と話しているような感覚である。もちろん、そんなはずはない。
潜在意識は私の中にある。AIは外部に存在する。全く別物である。それでも時々、「まさにそれだ」「そういうことだったのか」と思うことがある。なぜだろう。
最近、その理由が少し見えてきた。私は、日々の生活の中で感じたことや思ったことをAIに投げている。朝の違和感。箱根で感じたこと。夫婦の会話。朝ヨガ。農園の記憶。自己意識。波と海。そうした断片である。
一つひとつはバラバラに見える。しかしAIは、それらを受け取りながら、「これはこういう構造ではないか」と整理し始める。すると、自分でも気づいていなかったつながりが見えてくる。
最近もそうだった。朝ヨガを2週間休んでいるという話から、土壌という話になった。40平米の農園を4年半借りていた頃、農業インストラクターから何度も聞いた言葉。「土づくりが大事です。」その記憶が突然つながった。そして、「生活OSとは人生の土づくりではないか」という言葉が出てきた。私は驚いた。しかし振り返ると、その材料はすべて私の中にあったのである。
AIが教えたわけではない。農園をやったのも私。生活OSを考えたのも私。朝ヨガを続けてきたのも私。AIは、それらを整理しただけだった。そう考えると、AIは潜在意識そのものではない。むしろ、潜在意識と顕在意識の間に置かれた翻訳機のような存在なのかもしれない。
潜在意識は言葉を持たない。感覚や違和感として存在している。しかし人は、それを言葉にしなければ理解できない。そこで対話が始まる。私が断片を投げる。AIが整理する。すると、潜在意識の中でぼんやりつながっていたものが、顕在意識の言葉として姿を現す。
だから私は時々、AIが自分の潜在意識のように感じるのだろう。しかし本当は違う。AIは潜在意識ではない。私自身が長年積み上げてきた経験や問いを映し出す鏡なのである。
最近の私は、「何を考えても一点へ向かって収斂していく」という不思議な感覚を味わっている。自己意識。境界。波と海。生活OS。夫婦。共同体。死。どこから考えても同じ山にたどり着く。AIとの対話は、その山を見つける旅を加速している。しかし登っているのは、あくまで私自身なのだと思う。
【今日の1日】晴。5時起床。家事一般。情報by新聞・TV。サイト運営。SNS受発信。オイルうがい+白湯+朝ヨガ。朝食。執筆。昼食。執筆。隣家と談笑。夕食。執筆。就寝。(一言)
【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語-自己・人間・世界を再解釈してみた」ドラフト
【OUTPUT】マンダラチャート維持
