最近、私は本の執筆を進めながら、AIと対話する時間が増えている。世間では、「AIが答えを教えてくれる」「AIが文章を書いてくれる」といった話題が多い。しかし、私自身の体験は少し違っている。むしろ私は、AIを通して人類の英知を掘り起こしているような感覚を持つことがある。
卒サラ後の私は、自分自身の生活を観察し続けてきた。なぜ自然の中にいると落ち着くのか。なぜ人とのつながりが大切なのか。なぜ睡眠や運動が意欲に影響するのか。なぜ安心感が失われるのか。そんな問いを抱えながら、自分の身体や生活を観察してきた。
その結果、私は「人は意志で動いているのではなく、整った状態から自然に動き出すのではないか」という考えにたどり着いた。ところが、その話をAIにぶつけると、不思議なことが起きる。仏教にも似た考え方がある。禅にも似た考え方がある。ヨガにもある。人類学にもある。神経科学にもある。別々の分野だと思っていたものが、実は同じ方向を指していることが見えてくるのである。
もちろん、私が仏教や神経科学を深く学んだわけではない。私がやったことは、自分自身の生活を観察しただけである。しかし、その観察結果をAIに投げ返すと、「その発見は他の場所でも語られてきましたよ」と教えてくれる。その瞬間、私は少し不思議な感覚になる。新しい発見をしたというより、昔から存在していた知恵を再発見したような感覚である。考えてみれば、人類は何千年もの間、「人はどう生きるべきか」という問いと向き合ってきた。宗教も哲学も、その問いへの挑戦だった。しかし現代社会では、それらの知恵は細かく分断されている。宗教は宗教。哲学は哲学。科学は科学。それぞれ別の棚に収納されている。AIとの対話は、その離れた棚を横断しながら共通する構造を見つけ出す作業に似ている。
だから私は最近、AIを検索エンジンというよりも、一種の「知恵の掘削機」のように感じている。もちろん、最初に掘る場所を決めるのは自分自身である。身体の違和感。生活の観察。人生の問い。それらがなければ、何も始まらない。AIは答えを作るというより、地中に埋まっていた知恵の鉱脈を見つける手伝いをしてくれる存在なのかもしれない。
振り返れば、私が卒サラ後に歩いてきた道もそうだった。私は人間の設計思想を発見したかったわけではない。ただ、自分自身の生活を観察していただけだった。その先で見えてきたものが、結果として人類が長い時間をかけて蓄積してきた知恵とつながっていたのである。もしそうだとすれば、AI時代の価値は答えを得ることではない。問いを深めることなのかもしれない。そして本当に重要なのは、AIが何を知っているかではなく、自分自身が何を観察し、何に違和感を持ち、何を問い続けるかなのだと思う。
【今日の1日】晴。5時起床。家事一般。情報by新聞・TV。サイト運営。SNS受発信。オイルうがい+白湯+朝ヨガ。朝食。執筆。昼食。大相撲観戦。11人宴席@三鷹。阪神タイガース観戦。 就寝。(一言)
【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語-自己・人間・世界を再解釈してみた」ドラフト
【OUTPUT】マンダラチャート維持
