都市再考

東京って、意外と構えなくてよい

この3週間ほど、かなり環境を動かした。シンガポール7泊。東京2泊。箱根9泊。そして再び東京へ戻って2泊。昨日、東京のマンションで過ごしながら、ふと気づいた。東京って、意外と構えなくてよい。これは自分でも少し意外な発見だった。これまで私の中では、

東京=刺激、情報、人、動
箱根=自然、静けさ、内省、静

という整理だった。実際、箱根へ行くと思考は内側へ向かう。執筆も進む。自然の中を歩き、温泉に入り、静かな時間を過ごしていると、東京よりもはるかに「静」の環境にいることを感じる。だから当然、身体も箱根の方がリラックスしていると思っていた。ところが最近、身体そのものを観察するようになって、どうもそうではない気がしてきた。東京のマンションにいる方が、身体が構えていない。

なぜだろう。考えてみると、箱根での生活は意外に身体と意識を使う。戸建てである。敷地も広い。庭もある。天候も変わる。気温差も大きい。坂道がある。移動には車を使う。家の状態にもそれなりに気を配る。自然の中にいるということは、自然に合わせる必要があるということでもある。そして何より、箱根では「自分がこの生活を運営している」という感覚が強いのかもしれない。

一方、東京のマンションでは、多くのことを自分でやらなくても生活が成立する。玄関を閉めれば、とりあえず生活空間は完結する。建物の管理は管理会社がしてくれる。温度も安定している。エレベーターがある。徒歩圏に店があり、電車があり、病院があり、飲食店がある。つまり都市とは、生活に必要な機能のかなりの部分を外部化した巨大な装置なのだ。自分で生活を成立させなくても、都市の中に身体を置いておけば、かなりのことが勝手に回っていく。

そう考えると、箱根は静かだが、自分で生活を成立させる場所。東京は騒がしいが、生活を都市に預けられる場所。という、これまでとは違った見方ができる。ここで面白いのは、「静かな環境」と「身体が弛緩する環境」は同じではないということだ。外界の刺激量と、身体が構える度合いは別の軸なのだろう。

さらに今回、その前にシンガポールで7泊している。シンガポールでは、とにかく外へ出た。歩いた。見た。聞いた。街を観察した。身体がよく動き、思考のベクトルも外へ向いた。すると、この3拠点は少し違って見えてくる。シンガポールは、外へ向かわせてくれる場所。箱根は、内へ向かわせてくれる場所。そして東京は、意外にも、構えなくてよい場所。東京を「刺激を取りに行く場所」とばかり考えていたが、それだけではなかった。少なくとも今の私にとって、東京のマンションはかなり省エネルギーで存在できる場所らしい。

これは64歳になった今、身体を再び観察し始めたから見えてきたことかもしれない。若い頃なら、都市と自然を「どちらが楽しいか」「どちらが便利か」「どちらが快適か」で比較していた。今は少し違う。その場所に身体を置いたとき、自分はどのくらい構えているのか。肩はどうか。呼吸はどうか。姿勢はどうか。頭の中はどうか。
何かをしなければならない感じがあるか。生活OSというものを考えてきたが、「空間」は単なる背景ではないようだ。空間によって、身体に要求される役割が変わる。そして身体は、それに合わせて微妙に構えたり、緩んだりしている。

最近、「人生を運営しすぎない」ということを考えていた。これもつながっているのかもしれない。箱根では、自分が生活を運営する。東京では、生活の一部を都市に任せる。シンガポールでは、環境に身体を放り込み、反応させる。どれが良いという話ではない。むしろ、違うから面白い。

二拠点生活を始めて7年近くになる。そこにシンガポールという第三の環境が加わったことで、東京と箱根の違いまで、以前よりよく見えるようになってきた。環境を変えることの意味は、新しい場所を楽しむことだけではない。場所を変えると、それまで見えなかった自分の身体が見えてくる。今朝、東京のマンションでそんなことを考えている。

東京って、意外と構えなくてよい。頭で考えた都市論ではなく、身体がそう言っている。

【今日の1日】5時起床。家事一般。新聞+サイト運営。白湯+オイルうがい+ピラティス。朝食。夫婦昼食@中野(寿司)。第3回シンガポール企画。大相撲観戦。大河ドラマ鑑賞。夕食。阪神タイガース観戦(勝利)。就寝。(一言) 

【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語― 人間の設計思想を再発見する物語」ドラフト

【OUTPUT】マンダラチャート維持

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