意志

意志はどこにあるのか? ― 身体・感情・思考・行動をつなぐもの

人間を生命体として理解しようと、このところ「身体・感情・思考・意志・行動」の関係を考えている。身体は生命活動の基盤であり、感情は快・不快や価値を知らせ、思考は過去を振り返り、未来を予測する。そして行動によって外部世界に働きかける。では、その間にある「意志」とは何なのだろうか。これが、どうもすっきりしなかった。

意志は司令塔なのか?

かつて私は、自分という確固たる存在が人生を操縦していると思っていた。自分が考え、自分が決め、自分が行動する。つまり、思考によって判断し、意志によって行動するという理解である。しかし、最近は少し違う。人間の身体は、脳を含めた多数の器官が相互に作用する分散システムである。感情も思考も、身体の状態や外部環境から独立して存在しているわけではない。そして「自己」も、こうした相互作用の中で絶えず生成・更新されるモデルなのではないかと考えるようになった。そうすると、意志だけが独立した司令塔として存在するというのは、どうにも不自然である。そもそも、意志はどこから生まれるのだろう。

ジムに行くという小さな決断

最近、東京でもジムに通うようになり、運動する機会が増えた。例えば、ある朝、少し身体が重いと感じたとする。身体は「疲れている」と知らせる。感情は「今日は面倒だ」と反応する。一方、思考は「長期的には運動を続けた方がよい」と判断する。そこで「今日は軽めに運動しよう」と決め、実際にジムへ向かう。このときの「今日は軽めに運動しよう」が意志に相当するのだろう。つまり、意志とは、身体・感情・思考から生まれるさまざまな要求を調整し、行動の方向を定める働きなのではないか。さらに意志には、決めた行動を維持したり、状況に応じて修正したりする働きもある。そう考えると、意志は独立した司令塔というより、生命体全体の活動から生まれる調整機能と理解した方が自然である。

強い意志より、整った状態

ここで、もうひとつ気づくことがある。一般的に「意志が強い人」とは、嫌なことでも頑張って続けられる人を指す。しかし、運動を習慣化した人は、毎回強い意志を発揮しているのだろうか。むしろ逆ではないか。最初は多少の努力が必要でも、運動を続けるうちに身体が活性化し、運動後の爽快感を覚え、生活のリズムができてくる。すると、ジムに行くことが特別な決断ではなくなる。身体も感情も思考も、同じ方向を向き始めるからだ。意志によって行動を始め、その行動が身体や感情を変え、やがて意志に頼らなくても行動が自然に生まれる。これはひとつの循環である。還暦でサラリーマン生活を卒業してから、私は自分自身の生活OSを再設計してきた。睡眠、運動、食事、自然との接触、人との交流、創造的な時間、そして余白。これらをうまく組み合わせることで、無理に自分を奮い立たせなくても、自然に活動できる状態を作ろうとしてきた。振り返ると、これは意志を強くする試みではなく、強い意志を必要としない生活を作る試みだったのかもしれない。

欲望と意志は何が違うのか?

もうひとつ、興味深い問題がある。欲望も行動を方向付ける。お腹が空けば食べたくなる。疲れれば休みたくなる。楽しいことがあれば、もっと続けたくなる。では、欲望と意志は何が違うのだろう。私なりに整理すると、欲望は「こうしたい」という方向性を生み出す働きであり、意志は複数の欲望や長期的な見通しを踏まえて「こうしよう」と行動を方向付ける働きである。例えば、甘いものを食べたいという欲望があっても、健康を考えて今日は控えるという選択がある。逆に、健康のために運動したいという欲望と、実際に運動を続けようという意志が一致する場合もある。つまり、欲望と意志は必ずしも対立するものではない。むしろ、両者がうまく一致している状態の方が、生命活動としては効率的なのだろう。ただし、意志そのものも身体や感情、過去の経験、社会環境から影響を受けている。「自分の意志で決めた」という感覚があっても、その決定が完全に独立した自己から生まれているとは限らない。

意志もまた、縁起によって生まれる

ここで、最近考えている仏教の「縁起」とつながってくる。身体があり、感情が生まれ、思考が働く。周囲には自然があり、他者との関係があり、時間と空間がある。それらが相互に作用する中で、ある方向に行動しようとする意志が生まれる。そして行動することで、身体も感情も思考も変化し、次の意志も変わっていく。意志もまた、固定的なものではない。仏教の縁起を現代的に捉え直せば、意志もさまざまな条件によって生じる働きとして理解できるのではないか。もっとも、これは仏教と認知科学が同じことを証明しているという意味ではない。異なる時代の異なる知的体系が、人間を固定的な主体だけでは説明できないという問題に、それぞれの方法で向き合っているということだろう。

人生を動かすのは意志か、状態か

ここまで考えて、最初の「身体・感情・思考・意志・行動」という直線的なモデルも修正が必要だと感じた。実際には、身体・感情・思考が相互に作用し、意志が形成され、行動が生まれる。そして行動の結果が再び身体・感情・思考に戻ってくる。意志も行動を変えるが、行動も意志を変える。人間は、そうした循環の中で生きている。若い頃は、意志の力で自分を動かそうとすることが多かった。目標を立て、努力し、成果を上げる。サラリーマン生活では、その能力が高く評価された。しかし、還暦を過ぎた今は、少し違う方向に関心が向いている。身体の状態を整え、感情の動きを観察し、思考に余白を与え、外部世界との接点を豊かにする。すると、無理に頑張らなくても、自然にやりたいことが生まれ、行動につながっていく。もちろん、ときには意志の力で困難を乗り越える必要もある。しかし、それを生活の基本原理にする必要はないのではないか。意志で人生を動かすのではなく、意志が自然に生まれる状態を整える。そして、意志が生まれ、行動し、その結果によってまた自分が変わっていく。これが、私の考える「生命体として生きる」ということなのかもしれない。意志は人生の主人公ではない。意志もまた、人生という循環の中で生まれるひとつの働きなのである。

【今日の1日】5時起床。朝ルーティン。朝食。内科-薬局。ジム-昼食(スパゲティ―)。昼寝。夕食。就寝。(一言)ゴルフスイング、左足で踏ん張りながら左腰を引く、手は左手主導で振り下ろし、右手も加勢して振り抜く。 

【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語― 人間の設計思想を再発見する物語」ドラフト

【OUTPUT】マンダラチャート維持

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