余白と脳

余白とは、脳が自由に働ける時間だった― 38才の現役社員と64才の卒サラ生活から考える ―

先日、38才の不動産賃貸担当者と話をしていて、印象的な言葉を聞いた。「創造的になりたいんですけど、脳の多くが仕事で占有されているような気がするんです」なるほど、と思った。私は64才。還暦で37年間半のサラリーマン生活を終え、卒サラ5年目が始まった。最近は、日々の生活の中で新しい発想が次々と生まれ、考えること、書くことが楽しくて仕方がない。彼は38才で、創造的になりたいのに脳が仕事に占有されていると感じている。私は64才で、仕事から解放された脳が自由に動き回っている。この26才の年齢差と置かれた環境の違いが、ひとつの問いを浮かび上がらせた。人間の創造性を左右するのは、能力だけでなく、脳がどれだけ自由に働ける状態にあるか、ということではないだろうか。

仕事は時間だけでなく、脳を占有する

38才の彼は、仕事の経験を積み、さまざまな知識や判断力を身につけている最中なのだろう。仕事を通じて人と接し、問題を解決し、社会の仕組みを理解していく。それ自体が、人間の世界モデルを豊かにする重要な活動である。一方、仕事には別の側面もある。顧客への対応、期限のある案件、上司や同僚との関係、業績への責任。勤務時間が終わっても、こうしたことが頭から離れない場合がある。私自身、現役時代はそうだった。休日であっても、脳の一部は仕事を続けていた。仕事は、時間だけでなく、脳の注意や思考の領域まで占有するのである。もちろん、仕事の中にも創造性はある。難しい課題を解決したり、新しい仕組みを考えたりすることは、十分に創造的な活動だ。ただし、その多くは組織や顧客から与えられた目的の範囲内での創造性である。自分の関心に従って、自由に問いを立て、考えることとは少し違う。38才の彼は、その違いを直感的に感じているのかもしれない。

余白とは、何もしない時間ではない

彼の発言を聞いて、最近考えていた「余白」という言葉の意味が明確になった。余白とは、外から与えられた課題に追われず、脳が自由に働ける時間である。これは、単に予定が入っていない時間ではない。例えば、散歩をしているとき。身体は歩いているが、思考は自由に動き回る。昨日の出来事を思い出したり、以前から考えていたことと突然つながったりする。温泉に入っているときもそうだ。箱根の天山湯治郷でゆったりしていると、何かを考えようとしているわけでもないのに、新しい発想が浮かぶ。料理をしているとき、東京と箱根を移動しているときにも、似たようなことが起こる。身体が活動していても、脳には余白があり得る。逆に、ソファに座って何もしていなくても、仕事の懸案事項が頭を占めていれば、余白は少ない。38才の彼にも、休日や自由時間はあるだろう。しかし、時間が自由になったからといって、脳まで自由になるとは限らない。ここが重要なのだと思う。時間の自由と、脳の自由は違う。

38才は世界モデルを蓄積し、64才は再編集する

最近、私は人間の思考を「世界モデル」と「自己モデル」という枠組みで理解しようとしている。人間は外界との接触を通じて情報を取り込み、自分なりの世界モデルを作り続ける。その中には、自分は何者で、何を好み、どう生きたいのかという自己モデルも含まれる。これらのモデルは固定的なものではなく、経験を通じて更新されていく。この視点で、38才の彼と64才の私を比較すると面白い。38才の彼は、仕事を通じて世界モデルを蓄積している。新しい顧客、新しい案件、新しい問題。日々の経験が、世界を理解するための材料になる。しかし、その経験を自由に結びつけ、再編集する時間が十分ではないと感じている。一方、私は37年半の仕事を通じて、相当量の経験を蓄積してきた。そして卒サラによって、仕事から与えられる課題が大幅に減った。すると、それまで蓄積してきた知識や経験を、自分の関心に従って自由に結びつけられるようになった。人間の設計思想、生活OS、身体と思考、世界モデルと自己モデル、文明と生命体、直線と循環……。最近、こうしたテーマについて考察が進んでいる。64歳になって突然、思考能力が高まったということではないだろう。

37年間半かけて蓄積した世界モデルが、脳の自由を得たことで、新しい形に再編集され始めた。

そう考えると、今の創造性の高まりが腑に落ちる。もっとも、38才は蓄積、64才は再編集と、年齢だけで役割が決まるわけではない。38才でも自由に創造する人はいるし、64才でも外部の課題に追われる人はいる。大切なのは年齢ではなく、蓄積と再編集のバランスなのだろう。

活動と余白は、車の両輪

最近、私の生活はずいぶん多彩になってきた。ジム、ヨガ、ゴルフ、料理。東京と箱根の二拠点生活に加え、シンガポールでの滞在も楽しむようになった。さらに、国内のさまざまな街で、短期間暮らしてみることにも関心が向かっている。活動の多様性は、外部世界との接点を増やす。そして、それぞれの経験が世界モデルを更新する材料になる。しかし、活動を増やし続ければよいわけではない。予定を詰め込みすぎると、脳が自由に働く時間が失われてしまう。38才の彼は、仕事によって脳が占有されていると感じている。一方、64才の私は、自分で予定を詰め込みすぎれば、同じ状態を作り出してしまう。ここが面白い。外から与えられた仕事であれ、自分で選んだ活動であれ、脳の自由を失う可能性はあるのだ。そこで重要になるのが、活動と余白の循環である。

活動 → 経験 → 余白 → 世界モデル・自己モデルの更新 → 新しい活動

活動は新しい材料をもたらし、余白はそれらを自由に結びつける機会を与える。38才の彼にとっては、仕事の中にどう余白を確保するかが課題になる。64才の私にとっては、自由な生活を予定で埋め尽くさず、どう余白を守るかが課題になる。立場は違うが、向き合っている問題の本質は同じなのかもしれない。

余白にまで成果を求めない

ただし、ここで注意したいことがある。余白を「世界モデルを更新する時間」と定義すると、余白にまで成果を求めてしまう危険がある。何か新しい発想を生み出さなければならない。もっと深く考えなければならない。そう考え始めた途端、余白は新たな仕事になってしまう。38才の彼が、創造的になりたいという思いから、自分にさらに課題を課してしまえば、脳の占有はむしろ増えるかもしれない。64歳の私も同じである。執筆や思索が楽しいからといって、毎日何かを発見しなければならないわけではない。余白の中では、思考が自由に動いてもよいし、何も考えなくてもよい。世界モデルが更新されてもよいし、更新されなくてもよい。ただ、今ここに存在し、身体の感覚を楽しむだけでもよい。私が目指しているのは、創造性そのものではなく、心の平静である。創造性は、自由で落ち着いた状態から自然に生まれてくる副産物なのかもしれない。

38才の彼と、64才の私

あらためて、昨日の彼の言葉を思い出す。「創造的になりたいけど、脳の多くが仕事で占有されているようだ」38才の彼には、これから多くの経験を積み、世界モデルを豊かにしていく時間がある。そして、私にはこれまで蓄積してきた世界モデルを自由に再編集する時間がある。彼が持っているものと、私が持っているものは違う。彼には、現役で社会の最前線に接しているからこそ得られる情報や経験がある。私には、長年の経験を俯瞰し、組織の目的から離れて考えられる自由がある。どちらにも価値がある。ただ、38才の彼にとっても、64才の私にとっても、余白は必要なのだと思う。彼には、仕事に占有された脳を時折解放し、自分自身の問いに向き合う時間が必要なのだろう。私には、せっかく取り戻した脳の自由を、自分で作った予定や課題によって再び失わない工夫が必要なのだろう。

そして、ひとつ気づいた。38才の彼が今求めているものを、私は64才になって手に入れたのかもしれない。それは、お金でも、肩書きでも、単なる自由時間でもない。自分の脳が、自分の関心に従って自由に働けるという状態である。もちろん、その自由を得るために、必ずしも卒サラする必要はない。現役時代から、生活の中に余白を作ることはできるはずだ。むしろ、38才の今からその重要性に気づいている彼は、私よりずっと早く、脳の自由を意識した生活を始められるかもしれない。私が38才の頃は、そんなことを考える余裕もなかったように思う。仕事を通じて世界モデルを蓄積することに夢中だった。そして64才になった今、蓄積したものを自由に再編集する楽しさを知った。人生の前半で蓄積し、後半で解放する。それもひとつの人生だろう。しかし、本当は、蓄積と解放をもっと短い周期で循環させてもよいのではないか。38才でも、64才でも。活動して、経験して、余白を持ち、世界モデルを更新する。そしてまた、世界と出会う。この循環を回し続けることが、人間の創造性を育み、生活を豊かにするのではないだろうか昨日の38才の彼との会話は、64才の私に、余白の価値をあらためて教えてくれた。余白とは、何もしない時間ではない。何を考えてもよいし、何も考えなくてもよい時間なのだ。今日も生きていて面白そうだ。

【今日の1日】5時起床。家事一般。新聞+サイト運営。白湯+オイルうがい+ピラティス。朝食。ルンバ清掃。昼食。マシンピラティス。移動準備。夕食。新中野-知人宅-箱根峠。ミニ宴会。就寝。(一言) 

【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語― 人間の設計思想を再発見する物語」ドラフト

【OUTPUT】マンダラチャート維持

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