ホモ・サピエンス

ホモ・サピエンスはなぜ生き残ったのか? ― 思考の共有から文明、そしてAIへ

ホモ・サピエンスは、なぜ生き残ったのだろうか。かつて地球上には、私たちホモ・サピエンス以外にも、ネアンデルタール人やデニソワ人など、複数の人類が存在していた。しかも、彼らは互いに完全に隔絶していたわけではない。交雑し、遺伝子を交換していたことが、近年のDNA研究によって明らかになっている。現在の私たちの身体にも、ネアンデルタール人などの遺伝子の一部が残っている。では、なぜ独立した人類集団としては、ホモ・サピエンスだけが今日まで生き残ったのか。単純に、知能が高かったからだろうか。どうも、そういう話ではなさそうだ。ネアンデルタール人も高度な石器を作り、火を利用し、仲間と協力して生活していた。彼らの知的能力が、ホモ・サピエンスより一律に劣っていたという証拠はない。むしろ、人口規模、集団間の交流、文化の蓄積、環境への適応力、そして偶然が複合的に作用したと考えられている。ここで、私が特に興味を持ったのは、個体の思考能力と、集団としての知的能力は別物であるという点だ。

個体の思考から、集団の思考へ

どれほど優秀な個体であっても、その個体が生涯に獲得できる知識や経験には限界がある。しかし、人間は言語や模倣を通じて、他者の経験を自分のものにできる。さらに、その知識を次世代に伝えることができる。例えば、ある世代が優れた石器の製作方法を発見したとする。その技術が次世代に伝わらなければ、そこで終わりだ。しかし、技術が継承され、さらに改良されれば、次の世代は前の世代の到達点から出発できる。こうして知識や技術が世代を超えて積み重なっていく。これが「累積文化」である。ホモ・サピエンスの強みは、個体の頭脳だけでなく、こうした知識の共有と蓄積を可能にする社会的な仕組みにあったのかもしれない。もっとも、ネアンデルタール人にも文化の継承は存在した。両者の違いがどの程度あったのかは、まだ研究途上である。それでも、ここには人類の進化を理解する重要な視点がある。人類は、個体の能力を高めるだけでなく、個体同士をつなぐことによって、集団全体の能力を高めてきた。

文明とは、脳の外に蓄積された知性ではないか

この延長線上に、文明の発達を置いてみる。人類は、身体や脳の機能の一部を、次々と外部世界に移してきた。道具は、身体能力を拡張した。文字は、記憶を外部に保存することを可能にした。貨幣は、交換や価値の記録・調整を容易にした。科学は、知識を検証し、蓄積する仕組みを発達させた。コンピューターは、計算や情報処理を飛躍的に拡張した。そして現在、AIは、言語処理や推論、知識の整理・構造化の一部まで担い始めている。こうして並べてみると、文明の歴史には一つの大きな方向性が見えてくる。人類は、個体としての限界を、外部世界に機能を移すことによって乗り越えてきた。身体を無限に強くするのではなく、道具を作った。脳の記憶容量を無限に増やすのではなく、文字を作った。そして、個体の思考能力だけに頼るのではなく、AIを利用するようになった。AIの登場は、突然の断絶というより、人類が長く続けてきた「機能の外部化」の新しい段階と捉えることもできそうだ。

AI時代、人間の本業は何になるのか

ここで、少し逆説的なことが起きている。人類は長い時間をかけて思考能力を発達させ、文明を築いてきた。ところが、その文明が高度化した結果、思考の一部を人間以外のシステムに委ねられるようになった。では、人間は何をするのか。私は最近、「観察」と「創造」の重要性を強く感じている。人間は身体を持ち、現実の世界で生活している。歩き、食べ、人と会い、自然に接し、喜びや不安を感じる。そうした経験の中から、さまざまな疑問や関心が生まれてくる。一方、AIは膨大な情報を整理し、異なる知識を結びつけ、仮説を展開することに優れている。人間が世界を観察し、問いを発見する。AIがその問いを展開し、構造化を助ける。その結果を人間が再び現実の世界に持ち帰り、観察し、行動する。こうした循環が生まれる。もちろん、人間にも構造化は必要だし、AIも問いの発見を支援できる。しかし、身体を通じて生活し、その結果を引き受ける主体は、今のところ人間である。AIによって思考の一部が外部化されるほど、人間にとって現実の世界を経験することの価値が、改めて浮かび上がってくるのではないか。

そもそも思考は何のために進化したのか

ここで、もう一段、生命体そのものに立ち戻ってみたい。生命体は、思考するために誕生したわけではない。生命活動を維持し、環境に適応し、子孫を残す過程で、神経系や認知能力が進化してきた。つまり、進化の観点から見れば、思考は生命活動を支える機能のひとつだった。ところが、人類の思考能力が高度化し、文明が発達するにつれて、少し奇妙な逆転が生じたように思う。思考が、生命活動を支える道具であることを超えて、あたかも人生の主人公であるかのようになったのだ。将来のために現在を犠牲にする。お金を蓄積するために生活を組み立てる。社会的な評価や目標の達成を優先し、身体の疲労や感情の変化を後回しにする。私自身、長いサラリーマン生活の中で、そうした傾向が強かったように思う。しかし、還暦で卒サラしてからの4年間、身体、感情、思考、意志、行動の関係を考え直してきた。そして最近、少しずつ見えてきたことがある。思考は、人生全体を支配する司令塔というより、生命活動の中で生まれ、状況を整理し、選択肢を提示する機能なのではないか。身体は「今ここ」に存在している。一方、思考は過去にも将来にも自由に移動できる。それは人類にとって大きな強みだった。しかし、将来についての思考が現在の自分を過度に支配すると、生活のバランスが崩れることもある。思考の発達によって文明が生まれ、その文明が今、思考の一部を外部化し始めている。この大きな歴史の流れの中で、人間はもう一度、身体を持つ生命体としての自分に立ち戻る機会を得ているのかもしれない。

進化の主役は、個体だけではなかった

ホモ・サピエンスの生存を考えるところから始めたが、ここまで考えてくると、ひとつの共通した構造が見えてくる。生命体は、身体だけで存在しているわけではない。自然環境との関係があり、他者との関係があり、時間と空間の広がりがある。その中で、身体が活動し、感情が生まれ、思考が働き、行動が生まれる。行動は環境を変え、その経験によって、また自分自身が変化していく。人類の進化も、同じような相互作用の積み重ねだったのだろう。個体の能力だけではなく、集団との関係があり、文化の継承があり、環境の変化があった。そして、そうした関係の中から文明が生まれた。文明とは、生命体が外部世界との関係を拡張し続けてきた結果なのかもしれない。その文明は、今やAIという新しい段階に到達した。しかし、どれほど文明が発達しても、人間は身体を持つ生命体であることから離れられない。むしろ、文明が高度化するほど、その原点を見失わないことが重要になるのではないか。ホモ・サピエンスが生き残った理由は、まだ完全には解明されていない。ただ、その進化の歴史を眺めていると、私には一つの大きな流れが感じられる。生命が思考を生み、思考が文化を育て、文化が文明を築き、文明が思考を外部化する。そして今、人間は改めて、生命体としてどう生きるのかを問い直している。64才になった私が、卒サラ後の生活を通じて考えていることも、案外、この壮大な人類史の延長線上にあるのかもしれない。

【今日の1日】5時起床。朝ルーティン。朝食。休息。昼食。昼寝。2009-2018年の10年間と2019-2028年の10年間を思考。夕食。TV鑑賞。就寝。(一言)ゴルフスイング、左足で踏ん張りながら左腰を引く、手は左手主導で振り下ろし、右手も加勢して振り抜く。 

【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語― 人間の設計思想を再発見する物語」ドラフト

【OUTPUT】マンダラチャート維持

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