最近、人と喋ったあとに、ひとりで考える時間がかなり必要になってきた。昔から人と話すのは嫌いではない。むしろ好きな方だと思う。ただ最近、少し変化が起きている。人と会って話を聞く。その場では普通に楽しく喋っているのだが、家に帰ってから、その人から得た情報を自分の人生と照らし合わせる作業が始まるのである。
「あの人は、なぜあんな生き方になったのだろう」「自分にも同じことが起こるだろうか」「自分は何が違うのだろう」「このまま10年経ったら、自分はどうなるだろう」どうも私は、会話で得た情報をそのまま保存しているのではないらしい。得た情報 ⇔ 自分の人生という照合作業をしている。しかも最近、この時間がずいぶん長くなった。
他人の人生は、自分が生きなかった人生
考えてみれば、ひとりの人間が実際に生きられる人生はひとつしかない。結婚する人生と独身の人生を同時に生きることはできない。会社員を続けた人生と、60歳で会社を辞めた人生も同時には経験できない。都会に住み続ける人生と、自然の中に閉じて暮らす人生も同時には経験できない。ところが、人と話すことで、その人が生きてきた人生の一部を覗くことができる。
90歳になっても運動し、人と会い続けて元気な人。60代で離婚し、「すっきりした」と語る人。67才になっても若い人を指導する仕事が楽しいという人。病気を経験して、もう一度仕事をしようかと考えている人。あるいは、年齢とともに外出や人との交流が減っていく人。どれも私自身は生きていない人生である。だから最近、他人の人生とは、自分が実際には生きなかった人生のサンプルなのではないかと思うようになった。
会話とは、小さな人生シミュレーションなのかもしれない
そう考えると、人と会ったあとに時間が必要になる理由も分かってくる。私は情報を整理しているだけではない。その人の人生を材料にして、自分の未来をシミュレーションしているのである。「あの状態になるまでには、何があったのだろう」「自分の生活の中に、同じ兆候はないだろうか」「逆に、あの人が維持しているものを、自分も維持した方がいいのではないか」身体。人間関係。夫婦。仕事や役割。住む場所。お金。日々の習慣。こうしたものを一つひとつ、自分の現在の生活と照らし合わせる。だから、他人の話なのに他人事では終わらない。相手の人生を通して、自分の人生を点検しているのである。
思考は「編集者」なのかもしれない
私は最近、思考というものを「編集者」として捉えている。身体は現実世界の中で生きている。歩く。食べる。人と会う。自然を見る。疲れる。気持ちよくなる。そして思考は、そうやって身体が出会った現実を後から編集する。
人との会話も同じだ。人と出会う→話を聞く→何かを感じる→自分の人生と照合する→世界モデルを少し書き換える→自己モデルも少し書き換える この一連の作業が、会話のあとに起きているのではないだろうか。そう考えると、会話とは単なる「情報交換」ではなくなる。現実と出会い、自分の人生モデルを更新する行為になる。
若い頃とは、問いが変わった
若い頃にも、人から情報を得ていた。ただ、その情報の使い方は今とは少し違った気がする。「この仕事は面白そうだ」「この会社は伸びそうだ」「海外勤務もいいな」「こうすればもっと成果が出る」つまり、これから何をするかという問いに使うことが多かった。
ところが64才になった今は、少し違う。「この先、どう老いていくのか」「身体をどう維持するのか」「人との関係をどう残していくのか」「何を手放すのか」「最後まで何を面白がっていたいのか」問いそのものが長い時間軸を持つようになった。他人の人生を見ると、その問いに対する実例がそこにある。だから若い頃以上に、人との会話が重くなったのかもしれない。
「会う時間」と「ひとりになる時間」はセット
以前なら、予定表を見ると「人と会った2時間」がそのイベントだった。しかし今は違う気がする。2時間人と喋れば、そのあとに1時間、あるいは翌朝まで何かが残っている。思考が勝手に編集を続けている。だとすると、人と会う時間だけを予定として考えるのは間違っているのかもしれない。人と会う。そして、ひとりになる。外から情報を入れる。そして、静かなところで自分の中に戻す。交信 → 静 → 編集 ここまでがひとつのセットなのだろう。
人生後半の会話は「鏡」になる
若い頃、人との会話は世界を広げる窓だった。知らない世界を教えてもらい、行動範囲を広げていった。もちろん今でもその機能はある。しかし人生後半になると、もうひとつの機能が大きくなってくる。他人を見ることで、自分を見る。他人の成功を見る。他人の失敗を見る。元気な老人を見る。弱っていく老人を見る。幸せそうな夫婦を見る。ひとりで楽しそうに暮らす人を見る。仕事を続ける人を見る。仕事から完全に離れた人を見る。そのたびに、「では、自分は?」という問いが返ってくる。人との会話が「鏡」になってきたのである。
会話後の余白を、大切にしたい
そう考えると、最近、人と喋ったあとにぼーっとしている時間も、無駄ではない。むしろ重要な時間なのだと思う。新しく入ってきた現実を、これまで持っていた世界モデルと照合する。必要なら自己モデルを書き換える。そして生活をほんの少し修正する。それは会話の「後処理」ではない。会話の一部なのである。これからは、人と会う予定を詰め込みすぎない方がいいのかもしれない。面白い人に会う。たくさん喋る。そしてひとりになる。散歩する。風呂に入る。何もせず座る。翌朝、静かな時間を過ごす。すると、前日の誰かの一言が突然、自分の人生につながる。人と喋ることと、ひとりになること。その往復によって、自分の世界モデルと自己モデルは少しずつ更新されていく。最近必要になってきたのは、会話の時間そのものではなく、「他人の人生を、自分の人生に通す時間」なのかもしれない。
【今日の1日】5時起床。家事一般。新聞+サイト運営。白湯+オイルうがい+ピラティス。ジム-昼食。マシンピラティス。ジム-喫茶。買物。夕食。就寝。(一言)
【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語― 人間の設計思想を再発見する物語」ドラフト
【OUTPUT】マンダラチャート維持
