「面倒くさい」は、どこからやってくるのか
朝、食事を終える。流しには、使った皿やフライパンが残っている。洗えばいい。せいぜい数分で終わる。ところが、ふと感じる。「面倒くさいな……」
考えてみると、不思議な感覚である。重労働でもない。難しい仕事でもない。危険でもない。それなのに、人間は日常のいたるところで「面倒くさい」と感じる。いったい、この感覚はどこからやってくるのだろう。
まだ何もしていないのに、疲れている
面白いのは、「面倒くさい」は多くの場合、行動する前に発生することだ。食器を洗う前。着替える前。外出する前。メールを書く前。料理を始める前。まだ身体はほとんどエネルギーを使っていない。それなのに、すでに「面倒くさい」。
ということは、これは実際の疲労だけでは説明できない。どうやら脳は、これから起こることを先回りしているらしい。料理なら、
冷蔵庫を開ける。
材料を出す。
切る。
火を使う。
盛り付ける。
そして洗い物をする。
実際にはまだ何ひとつしていないのに、思考は未来の工程を瞬時に編集し、圧縮して提示する。そして、その未来予測に対して、「コストが高そうだ」と判断する。その感覚的な出力のひとつが、「面倒くさい」なのではないだろうか。
「面倒くさい」は未来予測である
こう考えると、「面倒くさい」を単なる怠け心として扱う必要はなくなる。むしろ、予測された行動コストが、予測された報酬を上回った状態と考えた方がわかりやすい。だから同じ行動でも、状況によって面倒くささは変わる。お腹が猛烈に空いていれば、料理はそれほど面倒ではない。楽しみにしていたゴルフなら、早朝でも起きられる。誰かが家に来るとなれば、普段なら面倒な掃除も始められる。行動そのものが変わったわけではない。こちらの状態と、予想される報酬が変わったのである。つまり、面倒くささは行動そのものの属性ではない。「自分の状態 × 環境 × 未来予測」の中で発生している。
なぜ始めると平気になるのか
ここから、日常でよく経験する現象も説明できる。「面倒くさいな」と思いながら始めてみたら、「あれ、たいしたことなかった」となる。これは考えてみれば当然なのかもしれない。行動前に感じていたのは、実際のコストではない。思考が作った予測コストだったからだ。始める前には、「着替えて、準備して、出かけて、歩いて……」とひとつの大きな塊に見えていたものが、実際には、
立つ。
服を着る。
靴を履く。
玄関を出る。
という小さな現実の連続に変わる。身体は未来全体を生きることはできない。身体が対応できるのは、常に「今ここ」にあるひとつの現実だけである。ところが思考には、未来をまとめて現在に持ってくる能力がある。これは人間にとって強力な能力である一方、まだ起きてもいない負担まで、今感じてしまうという副作用も持っている。「面倒くさい」は、その一例なのかもしれない。
生命体として考えれば、面倒くさくて当然なのかもしれない
さらに、人間を生命体として考えると、別の景色が見えてくる。長い進化の歴史において、エネルギーは貴重だった。食料はいつでも手に入るわけではない。意味もなく動き回ってエネルギーを浪費する個体より、「それ、本当にやる必要ある?」と行動を抑制する個体の方が、生存には有利だった可能性がある。そう考えれば、「面倒くさい」は欠陥ではない。むしろ、不要なエネルギー消費を防ぐ生命体のブレーキだったのではないか。
ところが文明社会になると事情が変わった。
運動した方が健康にいい。
片付けた方が気持ちいい。
人に会った方が刺激になる。
新しいことを学んだ方が世界は広がる。
文明OSは「やった方がいい」と言う。一方、生命体としての進化OSは、「別に今やらなくても生きていけるよ」と言う。私たちは毎日のように、このふたつのOSの間で暮らしているのかもしれない。
意志で「面倒くさい」に勝たなくていい
ここで、私が卒サラ後に考えてきた「生活OS」という考え方につながる。以前の私は、「やるべきことを決め、意志の力で実行する」という発想を比較的強く持っていた。
しかし最近は、少し違う。人は意志で動くというより、状態によって動く。そう考えるようになった。ならば、「面倒くさい」を感じたときにも、「怠けるな」と自分を叱る必要はない。むしろ観察すればいい。なぜ今、面倒なのだろう。
疲れているのか。
工程が多すぎるのか。
最初の一歩が大きすぎるのか。
報酬が遠すぎるのか。
環境が行動を邪魔しているのか。
そして、意志を強くするのではなく、面倒くささが発生しにくい状態と環境を作る。運動するなら、運動したくなる場所に身を置く。料理するなら、すぐ料理できる台所にする。外出したいなら、外に出た瞬間から歩きたくなる環境を選ぶ。人と交流したいなら、人との接触が自然に発生する生活動線を作る。これは、「意志で動かす」から「状態を作る」へという生活OSの転換でもある。
思考は編集者だった
そして、「面倒くさい」という小さな日常感覚を眺めていると、最近考えている「思考」の正体も少し見えてくる。思考は、現実そのものではない。現実を材料にして、過去を編集し、未来をシミュレーションし、意味をつけ、物語を作る。いわば「編集者」である。「面倒くさい」も、その編集結果のひとつなのだろう。
現実には、まだ何も起きていない。目の前にあるのは、洗っていない皿だけだ。ところが思考は、その皿から未来の一連の行動を作り出し、「これはコストが高いぞ」と現在の自分に知らせる。だから時には、思考の編集結果をそのまま現実だと思わない方がいい。「面倒くさいな」と思ったら、ああ、思考が未来を先取りしているな。くらいでいいのかもしれない。
そして身体を、とりあえず現実に戻す。立つ。皿を一枚持つ。水を出す。すると不思議なことに、「面倒くさい」と思っていた未来は消え、ただ皿を洗っている自分がいる。やはり、頭は未来へ、身体は今ここ。「面倒くさい」という何気ない感覚も、人間という生命体と、思考という不思議な機能の関係を教えてくれている。
【今日の1日】5時起床。家事一般。新聞+サイト運営。白湯+オイルうがい+ピラティス。ジム-昼食(麻辣湯)-ジム-喫茶。LINE交信。年金事務。夕食。大河ドラマ鑑賞。就寝。(一言)
【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語― 人間の設計思想を再発見する物語」ドラフト
【OUTPUT】マンダラチャート維持
