身体が疲れると、世界が暗く見える ― 思考は身体から独立していない
昨日は箱根から中野への移動日だった。妻は3日前に中野へ移動していたので、箱根の家の後片付けをひとりで済ませ、車で中野に戻った。いつもの移動日ではあるが、ひとりでの後片付けもあり、少々疲れた。すると、面白いことが起きた。思考がネガティブになり、活力が失われていったのである。特に何か悪いことが起きたわけではない。生活環境も、人間関係も、将来の見通しも、昨日と今日で大きく変わったわけではない。それなのに、物事を前向きに考える力が弱まり、気持ちまで沈んでいく。そこで、昨夜は早めに就寝し、8時間ほど眠った。今朝は、何とか回復した。この小さな出来事が、最近考えている「身体・感情・思考・意志・行動」の関係を理解するうえで、なかなか興味深い体験となった。
思考は、身体から独立した存在ではない
私たちは普段、自分の思考をかなり信用している。自分が考えたことは、自分の判断であり、世界を認識した結果だと思っている。しかし、昨日の体験は、その前提に疑問を投げかけた。身体が疲労すると、感情が変化し、思考の方向まで変わってしまう。同じ世界を見ているのに、身体の状態によって、その世界の見え方が変わるのである。つまり、思考とは、身体から独立して世界を客観的に評価する司令塔ではない。身体の状態に大きく影響されながら、その時々に生成される活動なのだ。以前、大腸内視鏡検査のために食事制限をした際にも、似たようなことを感じた。食事を制限すると、脳が十分に働いていないような感覚になった。今回も同じである。「思考力」という確固たるものが存在するのではない。身体の状態、感情、環境などが組み合わさった結果として、思考の質や方向が変化するのである。
身体は「今ここ」を生きている
最近、私は身体と思考の時間軸の違いについて考えている。身体は、基本的に「今ここ」の状態を知らせてくれる。疲れた。眠い。空腹だ。身体を動かしたい。一方、思考は時間軸を自由に移動する。過去を振り返り、未来を予測し、将来のために現在を犠牲にする選択肢まで提示する。人類は、この思考能力によって文明を発達させてきた。しかし、その過程で、思考があたかも人間全体の主人公であるかのように扱われるようになったのではないか。昨日の私は、身体が疲れているにもかかわらず、思考までネガティブになっていた。身体の疲労という短期的な状態が、思考を通じて、もっと広い世界や将来についての評価にまで影響していた可能性がある。考えてみれば、少々危ういことである。疲労しているときの思考を、そのまま人生についての正しい判断だと信じてしまうかもしれないからだ。
思考を変えるより、身体を整える
昨日、私が行ったことは単純だった。ネガティブな思考を論理的に修正しようとしたわけではない。気合いを入れて前向きになろうとしたわけでもない。ただ、早めに寝た。すると、翌朝には身体が回復し、思考の状態も改善した。これは、私にとって重要な発見である。思考の問題を、必ずしも思考によって解決する必要はない。身体を整えることで、感情が変わり、思考も変わる。もちろん、身体・感情・思考・行動は一方向に作用するものではない。それぞれが相互に影響し合っている。だからこそ、どこか一つを無理に支配するより、全体が良い状態になるように調整する方が合理的なのだろう。
移動日は、知的空間であると同時に身体的負荷でもある
箱根と中野の二拠点生活を始めて7年間弱。最近になって、移動日そのものが「第三の知的空間」になっていることに気づいた。箱根での生活を振り返り、中野での活動をイメージする。二つの拠点の間にある時間が、思考を整理し、世界モデルを更新する機会になっている。しかし、今回改めて気づいたのは、移動には身体的負荷もあるということだ。家の後片付け、荷物の積み込み、運転、到着後の整理。一つひとつは大したことがなくても、積み重なると疲労になる。そして、その疲労は身体だけにとどまらず、感情や思考にも波及する。そう考えると、移動日の夜には十分な余白を確保し、回復を優先することが重要になる。生活OSの設計では、活動の内容だけでなく、活動の順序、間隔、強度、回復時間まで考える必要があるのだ。
「私」が考えているのではなく、「私」の中で思考が生まれている
ここ1年間、私の最大の発見は「確固たる自己は存在しない」ということだった。かつては、確固たる「私」が存在し、その私が身体を使い、感情を制御し、思考によって人生を操縦していると考えていた。しかし、最近は少し違う。身体があり、感情があり、思考があり、自然や他者との関係がある。それらが相互に作用する中で、行動が生まれ、経験が蓄積され、「私」という自己モデルも更新されていく。昨日の体験は、この理解をさらに具体的なものにした。疲れた身体からネガティブな思考が生まれ、睡眠によって身体が回復すると、思考も変わった。そこに、すべてを支配する固定的な司令塔を想定する必要はない。むしろ、人間は多くの要素が相互作用する分散システムとして理解した方が、実感に合っている。そして、そのシステムの状態を観察し、環境や行動を調整することが、日々の生活を良くする鍵になるのだろう。
身体が疲れているときに、人生の結論を出さない
今回の体験から、生活OSにひとつの原則を加えたい。身体が疲れているときの思考を、人生や世界についての最終判断に使わない。ネガティブな思考が生まれたら、その内容をすぐに真実だと受け取るのではなく、まず身体の状態を確認する。疲れていないか。眠れているか。身体を動かしているか。十分な余白があるか。そして、必要なら休む。思考を変えようと頑張る前に、思考が生まれる土台を整えるのである。還暦で卒サラして4年余り。他者が作った時間割から、自分自身で作る時間割へと生活を切り替えてきた。その過程で気づいたのは、自由な時間が増えれば、それだけで良い生活になるわけではないということだ。身体、感情、思考、行動、そして自然や人との関係を、どのように循環させるか。その全体を整えることが、生活を設計するということなのだろう。良い思考が良い生活を作るだけではない。良い生活の状態から、良い思考が自然に生まれてくる。昨日の小さな疲労と8時間の睡眠は、そのことを改めて教えてくれた。
【今日の1日】5時起床。朝ルーティン。朝食。庭整備。移動準備。箱根峠-ゴミ捨て-知人宅-関係者挨拶-昼食@海老名SA-新中野。セットアップ・郵便確認。昼寝。事務対応。夕食。就寝。(一言)ゴルフスイング、左足で踏ん張りながら左腰を引く、手は左手主導で振り下ろし、右手も加勢して振り抜く。
【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語― 人間の設計思想を再発見する物語」ドラフト
【OUTPUT】マンダラチャート維持
