朝、新聞を読まなくなった。この3か月間ほど、朝起きると、いきなり執筆を始めることが多くなった。
以前なら、朝食をとりながら新聞に目を通すのが普通だった。社会で何が起きているのか、経済はどう動いているのか。長年の会社員生活で身についた習慣でもあったのだろう。
ところが最近は違う。朝起きると、頭の中に何かがある。昨日考えていたことの続きだったり、寝ている間に整理されたらしいアイデアだったりする。それを逃したくなくて、パソコンを開く。
そして書き始める。気がつけば新聞を読んでいない。そんな日が増えた。
世間を入力する前に、自分の中から出す
考えてみれば、朝の順番が逆転したのだと思う。以前は、世間を知る → 自分が考えるだった。新聞やテレビから社会の出来事を取り込み、それについて考える。つまり、一日の最初に「外」から情報を入れていた。
ところが今は、自分の中にあるもの → 書く → そこから次の問いが生まれるとなった。一日の最初に「外」から入れるのではなく、「内」から出すようになったのである。これは執筆には悪くない。
新聞を開けば、そこには今日の重要事項が並んでいる。しかし、それは私が選んだ重要事項ではない。社会や新聞社が選んだ重要事項である。もちろん、それを知ることには意味がある。
ただ、朝一番にそれを頭へ入れると、自分が昨日から抱えていた小さな問いが消えてしまうことがある。朝の頭は、まだ世間に占領されていない。その時間に書く。この3か月ほど執筆が急速に進んだ理由の一つは、案外こんなところにもあるのかもしれない。
しかし、世間に疎くなった
当然、副作用もある。世間の動きに疎くなった。以前なら知っていたニュースを知らない。経済や政治の出来事についても、「そんなことがあったのか」と後から知ることが増えた。自分の世界は深くなった。しかし、世間との接点は細くなった。これは少し気になる。新聞には、ニュースを知ることとは別の役割があるように思う。
「いま世間では、何が問題になっているのか」を一覧する機能である。新聞に書かれていることが「現実そのもの」ではない。新聞もまた、膨大な現実の中から出来事を選び、整理し、意味づけした「地図」である。しかし、自分の地図だけを眺めていると、世間がどんな地図を描いているのか分からなくなる。ときどきふたつの地図を重ねてみる必要はありそうだ。
新聞を朝に戻す必要はない
だからといって、以前の生活に戻そうとは思わない。「やはり朝は新聞を読まなければ」とすると、せっかくできた新しい流れを壊してしまう。必要なのは、昔の習慣に戻ることではなく、新しい生活の中に新聞を置き直すことなのだろう。
朝は書く。朝一番の、まだ世間の言葉が入り込んでいない時間は、自分の中にあるものを外へ出す。
その後、身体を動かし、外へ出て、現実と出会う。
そして一日のどこかで新聞を開く。全部読む必要もない。15分でもいい。自分とは違う場所で何が起きているのか。社会は何に関心を向けているのか。ざっと眺める。すると、自分の地図と、世間の地図が接触する。そこからまた、新しい問いが生まれるかもしれない。
入力と出力も循環なのだ
会社員時代には、新聞を読むことは「情報収集」だと思っていた。いまは少し違って見える。新聞を読むことも、執筆することも、大きな循環の一部なのかもしれない。世間を見る。 自分で考える。 書く。 身体を動かす。 現実と出会う。 もう一度、世間を見る。そうして外と内を行ったり来たりする。
問題なのは、新聞を読むか読まないかではない。世間ばかり見て、自分の中にあるものが見えなくなること。反対に、自分の世界ばかり掘って、世間との接点を失うこと。どちらかに固定されないことなのだろう。この3か月間、私は少し深く潜っていた。それはそれでよかった。
そろそろ、ときどき水面から顔を出して、世間を眺めてもいい頃なのかもしれない。朝は、自分の地図を描く。 昼は、身体で現実と出会う。 そしてどこかで、世間の地図にも目を通す。これくらいが、今の私にはちょうどよさそうだ。
【今日の1日】5時起床。家事一般。新聞+サイト運営。白湯+オイルうがい+ピラティス。朝食。買物-知人他ランチ@荻窪。休息。スイム-8人宴席@芝公園。就寝。(一言)
【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語― 人間の設計思想を再発見する物語」ドラフト
【OUTPUT】マンダラチャート維持
