無我

無我――確固たる自己は存在しない この1年間で最大の発見

この1年間、私は「人間とは何か」という問いを、さまざまな角度から考えてきた。人間の設計思想、生活OS、状態ファースト、思考の役割、自己モデル、直線から循環への転換。それぞれに新しい発見があった。しかし、今振り返ってみると、最も根源的な発見は、「確固たる自己は存在しない」ということだったのではないかと思う。仏教でいう「無我」である。もちろん、私という人間が存在しないという意味ではない。身体があり、記憶があり、感情があり、思考がある。64年間の人生経験もある。しかし、それらを統括する、変わることのない「私」という実体が、どこかに存在するのだろうか。最近、どうもそうではないように思えてきた。

1.長い間、自己が主人公だった

37年間半のサラリーマン生活を振り返ると、私の人生の主人公は、間違いなく「自己」だった。自分で考え、目標を設定し、計画を立て、行動し、成果を評価する。能力を高め、経験を積み、資産を蓄積する。将来のために現在を管理する。そこには、すべてを統括する確固たる「私」がいるという暗黙の前提があった。現代文明も、基本的にはこのような人間観の上に成立しているように思う。個人が意志を持ち、合理的に判断し、努力して成果を上げる。そして、社会全体が発展していく。もちろん、この仕組みは強力だ。私自身、その恩恵を十分に受けてきた。しかし、還暦で卒サラし、会社という巨大な外部システムから離れてみると、少しずつ違う景色が見え始めた。

2.人は意志ではなく、状態で動く

卒サラ後の生活で最初に大きく変わったのは、時間の使い方だった。会社の予定に従って動くのではなく、自分で一日を組み立てる。東京と箱根を行き来し、自然に接し、身体を動かし、人と会い、料理をし、考え、文章を書く。そんな生活を続ける中で、あることに気づいた。人間は、意志だけで動いているわけではない。むしろ、その時々の状態によって、意欲も行動も大きく変わる。よく眠れた朝には、自然と思考が動き出す。身体が疲れていると、普段なら面白いと思うことにも興味が湧かない。人と楽しく話した後には、世界が少し明るく見える。同じ景色でも、心の状態によって見え方が変わる。最近、東京でもジムに通い始めた。体重が減り、身体が引き締まり、活動的になってきた。すると不思議なことに、身体だけでなく、気分や意欲まで変わってきた。「私」が身体を動かしているつもりだったが、身体の状態が「私」を動かしているともいえる。いったい、どちらが主人公なのだろう。

3.思考もまた、固定した存在ではない

次に気づいたのは、思考の性質だった。長い間、私は思考こそが人間の中心だと思っていた。しかし、思考は何もないところから生まれるわけではない。身体の状態、周囲の環境、過去の経験、他者との会話、記憶、感情。そうした多くの要素が組み合わさって、その時々の思考が生まれてくる。先日、大腸内視鏡検査のために2日間食事を制限した。すると、普段のように頭が働かない感覚があった。思考力という確固たる能力が存在するのではなく、思考も身体の状態に左右される。脳は身体の一部なのだ。また、何も予定のない時間に、突然、新しい考えが浮かぶことがある。自分の意志で考えを生み出したというより、脳が自由に活動する中で、考えが自然に立ち上がってくる感覚に近い。そう考えると、思考は人生の絶対的な司令塔ではない。むしろ、身体と世界の相互作用から生まれる経験を整理し、意味づけ、未来を予測する「編集者」なのではないか。

4.では、「私」とは何なのか

身体は変化する。感情も変化する。思考も変化する。記憶も固定された記録ではなく、思い出すたびに再構成される。自分についての理解も、経験を重ねるたびに更新されていく。それなのに、私たちは「昨日の私も、今日の私も、同じ私だ」と感じている。これは実に不思議なことだ。最近、私は「自己モデル」という考え方に関心を持っている。脳は外界についてのモデルをつくると同時に、自分自身についてのモデルもつくっている。自分はどういう人間で、何が好きで、何が得意で、どのような人生を歩んできたのか。こうした情報を統合し、「私」という一つの物語をつくり上げているのではないか。その物語には連続性がある。しかし、内容は絶えず編集されている。自己とは、固定した実体ではなく、更新され続けるモデルなのかもしれない。ここで、仏教の「無我」という考え方が、急に身近なものになってきた。

5.2500年前の「無我」

仏教では、人間を身体、感覚、知覚、意志的な働き、意識などの要素の集まりとして捉える。いわゆる「五蘊」である。これらはいずれも条件によって生じ、変化していく。その中に、永遠不変で、独立して存在する自己を見いだすことはできない。これが「無我」の基本的な考え方だと理解している。重要なのは、無我が「人間など存在しない」という主張ではないことだ。私たちは確かに存在し、考え、行動し、他者と関係を結んでいる。ただ、その背後に、変化しない独立した主人公を想定する必要はない。これは、私が生活の中からたどり着いた感覚と、驚くほど重なる。もっとも、仏教の無我は苦しみからの解放に関わる実践的な教えであり、現代の認知科学における自己モデルと同じ理論ではない。それでも、異なる時代の異なるアプローチが、固定的な自己という前提を問い直していることは興味深い。

6.無我は、人生を自由にする

では、「確固たる自己はない」と気づくことに、どのような意味があるのだろう。私には、これは大きな解放につながるように思える。私たちは、過去の経験から自分についての物語をつくる。「私はこういう人間だ」「私はこういうことが得意だ」「私はこういう生き方をしてきた」こうした自己認識は、社会生活を送るうえで役に立つ。しかし、いつの間にか、その物語に自分自身が拘束されることもある。私の場合、長年にわたって、成果を出し、合理的に判断し、将来に備える人間として生きてきた。それは当時の環境に適応した、十分に有効な自己モデルだった。しかし、会社を離れ、64才になった今、同じ自己モデルに固執する必要はない。身体も変わった。時間の使い方も変わった。社会との関係も変わった。ならば、「私」も変わってよい。むしろ、変わり続けることこそ自然なのだ。過去の自分に忠実であることより、今の自分を取り巻く条件に適応することの方が大切なのかもしれない。

7.直線から循環へ

ここで、もうひとつの発見とつながる。「直線から循環へ」という人生観の転換である。サラリーマン時代の人生は、基本的に直線的だった。目標を設定し、努力し、成果を積み上げる。将来に向かって前進する。しかし、卒サラ後の生活では、違う時間の流れを感じるようになった。朝起きて、身体を動かし、自然に接し、人と関わり、考え、食べ、眠る。翌日も、また同じように生活する。一見すると繰り返しだが、まったく同じ日はない。身体は少しずつ変わり、経験が増え、世界の見え方も変わる。循環しながら、自己モデルも更新されていく。以前、私はこれを「螺旋」と表現したことがある。同じところを回っているようで、少しずつ違うところにいる。そして、確固たる自己が存在しないのなら、この循環を統括する絶対的な主人公も必要ない。身体、自然、関係、時空が相互に作用し、その中から意欲や行動が生まれ、経験が蓄積され、自己モデルが更新される。人生とは、そうした動的なプロセスなのではないだろうか。

8.「理想の自己」より「よい状態」

このように考えると、人生の目標そのものが変わってくる。これまでは、「どのような自分になりたいか」を考えてきた。しかし、固定した自己が存在しないのなら、理想の自己を完成させることに、どれほど意味があるのだろう。むしろ大切なのは、よい状態を維持し、よい循環を生み出すことではないか。私が最近、意識しているのは、身体、自然、関係、時空という四つの要素だ。身体を動かし、柔軟性や筋力を維持する。自然に接し、感覚を取り戻す。人と関わり、刺激や安心を得る。場所と時間を選び、活動と余白のバランスを取る。それらを組み合わせて、自分にとって心地よい状態をつくる。最近、その理想を「穏やかで活発」と表現するようになった。穏やかであることと、活発であること。一見すると反対のようだが、両立できるように思う。安心できる生活基盤があるからこそ、好奇心を持って世界と関わることができる。そして、世界との関わりが、また新しい自分を生み出していく。

9.64才からの無我

還暦で卒サラしてから、4年間が経過した。この間、私は会社員時代には考えもしなかったようなことを、毎日のように考えている。特にこの1年間は、人間の設計思想を考える中で、次々に新しい発見があった。そして、今、「確固たる自己はない」というところまで来た。不思議なことに、この発見は、自分という存在を小さくするものではなかった。むしろ逆である。固定した自己がないからこそ、これからも変わることができる。新しい経験を通じて、世界の見え方を変えることができる。身体の変化を受け入れながら、新しい生活をつくることができる。64才の今、身体の維持に力を入れているのも、単に老化に抵抗するためではない。相当高齢になっても、自分の身体で移動し、人と関わり、世界との循環を続けるためである。その時の「私」は、今の私とは相当に違うかもしれない。それでよいのだ。

おわりに――私は、生成され続けている

かつて私は、自分という確固たる存在が人生を操縦していると思っていた。しかし、今は少し違う。身体があり、自然があり、人との関係があり、時間と空間がある。それらが相互に作用する中で、感情が生まれ、思考が生まれ、行動が生まれる。そして、その経験によって、また「私」が更新されていく。私は、人生を動かす固定的な主人公ではなく、人生という循環の中で絶えず生成される存在なのかもしれない。そう考えると、人生はずいぶん軽やかになる。無理に自分を完成させる必要はない。過去の自分にこだわる必要もない。今の身体の声を聞き、世界との関係を保ち、よい循環を続ければよい。「頭は未来へ、身体は今ここ」。そして、今日もまた、少し違う自分が生まれてくる。今日も生きていて面白そうだ。

【今日の1日】5時起床。朝ルーティン。朝食。ゴルフ練習-昼食(寿司)-喫茶。確定申告下準備(含む、向こう3年間の納税イメージ)。会社事務。夕食。就寝。(一言)ゴルフスイング、左足で踏ん張りながら左腰を引く、手は左手主導で振り下ろし、右手も加勢して振り抜く。 

【INPUT】(日経新聞) (WSJ) (YouTube)(読書)「卒サラ@還暦 物語― 人間の設計思想を再発見する物語」ドラフト

【OUTPUT】マンダラチャート維持

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